そこでは話し相手という例をあげましたが、実際には「「我を捨て、自分の外にでる」ということの意味」で補足したように、インプットの対象は話をする相手だけでなく、もっと一般的な意味での人間だったり物事だったりします。そこでも書いたとおり、インプットを行うのは、我を捨てて自分の外に出て、自分の中にないものを発見するためです。
自分の思い込み・当たり前・固定観念の外に出るために、観察対象の立場になって観察・聞き取りをする。いわゆる質的調査と呼ばれるものです。質的調査を通じて僕たちはそれまで居た自分の内側の世界から外の世界を旅することになる。
僕は、西行や芭蕉のような歌人や俳人が日本各地を遊行してまわったり、折口信夫さんや宮本常一さんの民俗学者や、柳宗悦さんのような人が全国をフィールドワークしてまわったりしたのも、結局のところ、自分の世界の外に出て、好みをスクリーニングするために必要なことだったのだと考えています。千利休や骨董の目利きで知られる青山二郎さんがたくさんの器に接したのもおなじことでしょう。
「アウトプットは毒素の排泄活動?」であらためて定義したとおり、インプットとは、「外のものを中に入れるのではなく、自分の境界をすこし広げたり、自分の居場所を移動させたりすることで、それまで外にあったものを内にすること」です。
自ら外の世界を旅して、自分自身の内側を変える発見・出会いというインプットをし得ることがない限り、何かをアウトプットするためのスタート地点にも立てないはずです。
入力したものをどうするか?
ただし、インプットを行えば自然にアウトプットができるようになるかというとそう甘いものでもありません。そこから実際にアウトプットが出てくるところまではあと数ステップの作業が必要になるはずです。それを意識的にプロセスをおってやるか、無意識に実行しているかは別として。ざっくりとそのステップを分類すれば、以下の3ステップに分けられます。
- Why:インプットする、データ・情報の収集をする、説明できないもの(=自分の外にあるもの)を発見する
- What:発想する、データ・情報を分析する、説明の仕方(=仮説)を考える
- How:アウトプットする、データ・情報を素材に編集物を創作する、最も適切な説明を見つける
アウトプットすることを基準におくと、何故アウトプットするのか?→何をアウトプットするのか?→どうアウトプットするのか?とステップは進むわけです。
もちろん、これは図式化しているのであって、実際はこうきれいに進むわけではありませんが、かといって途中を抜かしてうまくいくものでもありません。
この3つのステップで意外と軽視されているのが、真ん中のWhatの段階だと僕は思っています。
どうアウトプットするか(How)のアイデアを考えるためには「リフレーミング」というアプローチの仕方がありますが、その前に、何をアウトプットするか(What)のコンセプトを抽出する作業のところが意外とブラックボックスになってしまっています。
質的調査で収集したデータをどうやって使って、アウトプットにつなげるかというところが意外と適当に行われているんですね。だから、とうぜん、できたもの=アウトプットがまったくインプットしたものとは無関係なものになります。
それでは何のためにインプットしたの?ですよね。ようするにインプットではいったん、自分の外に出たものの、アウトプットする段階ではいつの間にか、また自分の枠組みのなかに閉じこもって考えてしまっているわけです。
入力したデータを元にどう発想するか? Whatを導くか?
質的調査によって収拾したデータを元にアウトプットを生成するためには、入力したデータを元にどう発想するか? Whatを導くか? が問題なわけです。質的調査のデータをいかにアウトプットにつなげていくかを方法として明示化したものには川喜田二郎さんの発想法(KJ法)があります。僕の『ペルソナ作って、それからどうするの?』も結局はそこを狙ったものです。いずれもターゲットとなるのは、観察・聞き取りなどの質的調査によって集めたデータを元に、いかにしてアウトプットのためのコンセプトを発想するのかということです。言い換えればアブダクションのための具体的な方法だともいえます。
そして、おなじところをターゲットにしたものには、もうひとつグラウンデッド・セオリー・アプローチというものもあります。
グラウンデッド・セオリー・アプローチは、データに基づいて(grounded)分析を進め、データから概念を抽出し、概念同士の関係づけによって研究領域に密着した理論を生成しようとする研究方法です。戈木クレイグヒル滋子『グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生みだすまで』
グラウンデッド・セオリー・アプローチの最終目標は、理論=複数の概念を体系的に関係づけた枠組みをつくりあげることです。この点がKJ法とすこし違う点だといえますが、質的調査をいかに研究に役立てるかという点では共通しています。
KJ法にしても、グラウンデッド・セオリー・アプローチにしても、集めたバラバラの状態の情報を整理して、全体感のみえる地図に変換する作業を行うわけです。旅をしたのだから、その道程をあらためて地図に書き変えるのです。この全体像のみえる地図もなしに、いきなり主観的な記憶のみでアウトプットをつくろうとするから間違うわけです。旅の記憶が必ずしも実際の地図と一致しないのとおなじで、記憶だけを頼りにしてしまうとやっぱり自分の頭のなかのイメージの世界に戻ってしまうのです。
シンボリック相互作用論
僕がこのグラウンデッド・セオリー・アプローチに惹かれるのは、その背景にシンボリック相互作用論というものをもっているからです。シンボリック相互作用論では、人は社会的相互作用の中で対象(他者、出来事など)を意味づけて行動し、その意味は、相互作用の過程の中で修正されるものだと考えられています。対象の意味は相互作用の中で形作られ、変化を繰り返すものなのです。戈木クレイグヒル滋子『グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生みだすまで』
「お客さんから逃げない」では「物と人が出会い、実際にそれが使用されたときに意味が生まれる」という言い方をしましたが、この相互作用というものを基本におかない考え方というのはあやしいと思っています。
つまり、観察者による影響を排除した発想というのは信用できないと思うのです。
インプットの際には「我を捨て、自分の外にでる」といっているように、物事をみる際にはどうやっても観察者の思い込み・当たり前・固定観念を完全に排除することはできません。できるのは観察結果には観察者の思い込み・当たり前・固定観念が含まれているのだと認識したうえでデータの分析を行うことくらいです。
常に自分の外に出ることを意識していなければ、そうなりませんし、具体的にはこのグラウンデッド・セオリー・アプローチやKJ法のような具体的なデータ分析作業を実際の活動として実施しない限り、思い込み・当たり前・固定観念を排除して、
分析作業を通して自分の枠組みではなく、対象の考えに即して概念をどうとらえるのか、概念同士の関係をどう見るのか、何を理論の中核に据えるか戈木クレイグヒル滋子『グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生みだすまで』
といった作業を進め、What=コンセプトを導き出すことはできません。
Whatのステップを具体的な作業として実行することの意味
ただ、先にも書いたとおり、意外とこのステップの作業が軽視されていて割愛されることが多いんです。ひとつには、シンボリック相互作用論的な観察者の影響というものが理解されていないために何故このステップが必要かがわからないということもあるでしょうし、もうひとつにはそれがわかっていても具体的な作業のやり方がわからないということもあるでしょう(もうひとつ、めんどくさいからという理由もあるでしょうけど、それはここでは論外とします)。
入力したものをどうするか? を考えるためには、このWhatのステップの具体的な作業方法を理解し、実行し、身につける必要があると思います。
確かに慣れた人はこのステップを頭のなかだけで行えることもあるとは思います。でも、実際にそうしている人の数よりも実際にそれができる人の数のほうが少ないはずです。つまり、多くの人は本当はちゃんとできていないのに頭の中だけで済ませてしまっているのだと思います。
「情報摂取の場・過程・作法をみなおす」や「思考のプロセスの4段階と作業空間の関係」で書いたとおり、ある程度の量のあるデータ・情報を相手に思考を組み立てようと思えば、頭のなかの処理空間では作業スペースが狭すぎるのです。そのスペースの不足を補うためには、それなりの広さをもった物理的な空間のサポートが必要なはずです。つまり、連想をはたらかせアブダクションが動くようにするためには適切な広さをもった場が必要なのです。もちろん、頭のほうにもそれなりにアブダクションが働くための情報の引き出しが用意されていないと、目の前で物理的な形で提示されたデータと頭のなかの情報とのあいだで、有益な連想がはたらきませんが。
このスペースを用いて手間のかかる物理的な作業を行うことで、自分の思い込み・当たり前・固定観念に客観的に気づくこともできるし、思い込み・当たり前・固定観念がフィルターとなって隠れていた・気づかなかった概念間のつながりも見えるようになる。この感覚を身につけることこそがWhatのステップを具体的な作業として実行することの意味だと思います。
グラウンデッド・セオリー・アプローチに関しては、僕自身もまだ触れたばかりなので、しっかり身につけられるように今後トレーニングもしていければ、と思っています。
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