「我を捨て、自分の外にでる」ということの意味

「僕にはそれは無理」「私にはちょっとむずかしすぎる」
うーん。なんでそう自分を決めつけちゃうんでしょうね。自分を一点に縛りつけようとするんでしょう。
そのほうがラクだからなんでしょうね、気持ち的に。
私は○○だ。○○はそれはできない。だから、私はそれができない。
と言い訳を組み立てた方が「できない」ということが理屈にあってて仕方のないことだという気がしますからね。

実際にはそうはいってても「できない」はずのことが「できちゃった」なんてなる日が来ないとは限らないんですけど。人って自分で自分をいくら決めつけたところで変わるものですから。
その意味で、ある時点であることができた/できないということで、自分の可能性なりタイプなりを固定してしまうことには大した意味はないし、むしろ、そうした自分に対する固定観念は邪魔になるだけだと思うんですけどね。

知ることの裏表にどっちがいいもの悪いもない

とはいえ、確かに「2009-04-30:知るということは危険をともなうこと(だから、おもしろい)」で書いたとおりで、何かを知る・わかるというのは自分自身を変えることであり、それにはリスクをともなうわけですから、覚悟もなく下手に新しいことを覚えて身を滅ぼす危険をおかすよりは現状維持を重視するというのもひとつの手ですよね。

ここは大礒ですから隣に二宮尊徳の出身地がありますが、尊徳の時代にも百姓に学問はいらないと言われたはずです。それは、知るということの裏表がよくわかっていたからだろうと思います。学問をすることが必ずしもいい結果になるとは限らない。知るということは、決して、必ずしもいいことではないことは昔の人は知恵として知っていたと思います。

「僕にはそれは無理」と思うことも「もしかしたらできるかも」と思うのも、その人にとっての自分に関する知識です。ただ、後者の場合はそう思うことで新しい知識に触れることになる。それは決して「必ずしもいいことではない」。結果がいいとは限りません。

なので、保守的に現状維持を望んで新しい知識(すくなくとも自分の生活の領域外の知識)をシャットアウトするか、革新的に貪欲に新たな知識を求めて自分の世界の外に出ていくかは、どっちがいいというわけではないと思います。進歩が必ずしもいいわけではないのは、ちょっとまわりを見渡して問題だらけの現代社会をみれば気づくはずです。すくなくとも進歩一辺倒でよいはずはなく、一方で保守、現状維持に価値を見いだす見方もあっていいと僕は思います。

とりあえず信じて自分でそのとおりやってみる

でも、一見、好奇心旺盛、向上心たくましいような素振りを見せながら、自分の殻に閉じこもって遠目から新しそうな知識を傍観してるだけなのはいただけない。知識をテレビ番組でもみるように画面の外から覗き込んでいるだけでは何も変わりません。知識を得ようというのなら、画面越しに接触のない状態で触れるのではなく、直接自分の身体で知識と取っ組み合いをしないと意味がない。傍観者のように知識を自分とは関係のないものとして見るのではなく、本気で知識に触れるつもりなら触れた瞬間、その知識を信じることが必要だと思います。

役に立つかどうかがわかってるから知識を習得するのではないのだと思います。役に立ちそうだと思ったら、とりあえず信じて自分でそのとおりやってみる(企業なんかだとやる前に費用対効果だのなんだのとわかるわけがないことに時間と労力を費やしてしまっていて、これができないから、だいぶ自分たちで自分の首を絞めてますよね)。
昨日の「アウトプットは毒素の排泄活動?」に書いたとおりで、毒/薬としての知識をまずは身体のなかに飲み込むんです。役に立つかどうかは飲んでみてから自分の身体で実証すればいい。知識の効き方は人によって個人差があるわけですから自分自身で飲み込んでみて人体実験するしか手はありません。

自分はこういうタイプだから、この知識は身体に合いそうだとか合わなさそうだとかいうこともありません。そんな決め付けが可能なほど、人間のほうも知識のほうも固定されたものではないのです。自分と知識がいっしょになってはじめて、それが自分に合うとか役に立つとかがいえる。そうなる前に自分を○○だと決めつけることにそんなに意味はないと思いますし、むしろ、その決めつけは知識に向かい合う際の邪魔になる

「我を捨て、自分の外にでる」ということの意味

アウトプットができない人がまずやるべき3つのこと」で書いた「我を捨て、自分の外にでる」というのはそういうことなんです。自分が知識というインプットを飲みこむのに障害となる自分は○○だという固定観念を捨てることが「我を捨て、自分の外にでる」という意味です。

ひとりエスノグラフィ」というエントリーでも書いたとおり、自分の行動(実際にやってること)と思考(自分がそうだと決めつけてしまってること)のギャップに気づかない人って結構いるし、すべての人がそういうところを多少なりとももっているものです。ただ、そのギャップに気づいて固定観念の外に出てみようとできる人とそうでない人がいる。知識の裏表を知恵として知っていた昔の百姓のように自ら現状維持・保守を選択した人なら別ですが、そうでもないのに自分の行動と思考のギャップに気づかずに、自分の固定観念からのみ物事をみてしまうこと―自分は自分の固定観念から一歩も出ないのにまるでテレビの画面をみるだけで世界に触れた気になってしまうこと―がマズイのです。

そのものになってみる=二次的理解

なので、「アウトプットができない人がまずやるべき3つのこと」で書いた、オウム返しをする/質問をする/相手の話の良いところをほめるというのはなにも、話を聞く相手に対してのみに適応できるというものではないのです。
あらゆる知識・情報の源泉となりそうな、自分の身のまわりの物事すべてに対して、真似をする/わからないところを見つける/そのものの在り方の良い点を見つけるということがインプットの基本となり、アウトプットを生み出すためのスタート地点になるのです。
真似をする/わからないところを見つける/そのものの在り方の良い点を見つけるというのは、一言でいえば「そのものになってみる」ということでしょうか。

その対象は、本でもいいですし、身のまわりで起こった出来事でもいいですし、自分の仕事にとってお客さん・クライアントになる方の生活・行動でもいいでしょう。そうしたものを対象として、真似をする/わからないところを見つける/そのものの在り方の良い点を見つけるということをしてみる。そうして自分の一方的な閉じた見方を捨て、相手のポジションを理解すること、対象そのものになってみることで、自分がアウトプットすべきことのヒントが得られるのではないかと思います。
そう。毒を身体にいれることではじめて身体が反応して排泄物が生みだせる。身体に刺激も与えもせず、自分の側に変化もないのに、まともなアウトプットが出てくるはずもないのです。特に自分ではなく他人の役に立つアウトプットは出せません。

デザイナーが、自分たちのプロジェクトに、ステークホルダーを参加させ、反対者を支持者に変え、一致しない視点を協議し、異なった専門家の知識を利用し、人工物の開発を先に進めるために、ステークホルダーを信頼する必要がある。もしそれができなければ、単純に失敗する。

クリッペンドルフは、物の意味にフォーカスした人間中心のデザインでは、デザインする人はそれを使う人、購入する人、メンテナンスする人などの人工物に関係するあらゆるステークホルダーにとっての物の意味を二次的に理解したうえでデザインを考える必要があるといっています。つまり、二次的理解というのは、それらステークホルダーになってみるということです。ペルソナがデザインに役立つとすれば、この二次的理解という面からですね。

そうそう。インプットからアウトプットへの変換の仕方が「アウトプットができない人がまずやるべき3つのこと」のエントリーには書いていないという指摘もありましたが、そこが疑問な方は「デザインする人に必要な能力は?」がいくらか参考になるのではないかと思います。あとはアウトプットのアイデアの膨らませかたなら「リフレーミング」というエントリーも参考になるのではないか、と。

というわけで、特に明示していませんが、ここ最近のエントリー(特に文中にリンクをはったもの)は連載になってるわけです。

  

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