- インプット
- 外のものを中に入れるのではなく、自分の境界をすこし広げたり、自分の居場所を移動させたりすることで、それまで外にあったものを内にすることをいう。
- アウトプット
- 自分を捨てて、リスクを負い、自分の枠組みの外の世界と接することで違う自分に変わること。アウトプットとはその変わった自分自身。
どんなに創造的にみえるアウトプットであろうと人間が生みだすアウトプットは真の創造物ではなく編集物です。自然に存在する素材を加工するか、すでに誰かがつくった人工物を編集することによってしか、人間はアウトプットなどできません。
また別の視点からみると、アウトプットが誰かに何かを伝えようとするものなら、前提としてすでに相手が知っているもの(あるいは意味を理解できるもの)を使って伝えることが必要になり、結局はどんなに新しい創造物であっても人間社会におけるルールを踏襲するしかないということにもなる(言語による創作を考えると一番わかりやすい)。
僕は、人が何かをアウトプットする行為(その前提となるインプットも含めて)って、単純にいってしまうと外(外部環境)と内(自分)との差分をとる行為ではないかと思っています。なので先のエントリーでも、我を捨て相手の懐に入れといったわけです。そうやってインプットしたあとではじめて差分がとれる。この外側と宇都側の差分をとる活動がアウトプット。
いや、外と内というか、いまとその次かもしれない。事前/事後。before/after。何か主体的な活動を介して得たいまの感覚が次のアウトプットになる。比喩的にいえば、それは濾過に近い。
なので、その意味では自分の殻に閉じこもらずに、ちゃんと外と接していればアウトプットは(ある程度は)自然に出るはずだとも思います。まぁ、リスクをとらずに離れたところから自分には関係ないやという態度で、あらゆるものを茶化してるだけじゃ何も生まれてこないことには変わりませんけど。
アウトプットはただの排泄物?
ただし、いったん体内に入ったものは簡単には吐き出せない場合もあると思います。吐き出すのに苦痛をともなったり、苦労しても吐き出しきれない場合もあるでしょう。生みの苦しみが必要になるケースも確かにある(その前の段階ではあまりに毒素が強くて飲み込めない=インプットできないということもあるでしょう)。そこにインプットをすること、知るということ、外の世界を遍歴することのリスクもある。
そんなことを思いながら、前に読んだ松岡正剛さんと茂木健一郎さんの対談集『脳と日本人』のなかのこの一文を思い出しました。
茂木 毒って体内に取り込むと、吹き出物とかになって外に出てきますよね。もともといらないものが出てくるわけですね。人間にとっては、二酸化炭素などもそうですね。だから、創造という現象も、毒出しというか、排泄という視点からみると面白い。脳の神経系による「毒出し」の行為が、すなわち想像でもあると。
松岡 その通りでしょう。
前に読んだときはしっくりこなかったんですけど、昨日あんな風にインプット/アウトプットを定義してみて、とても納得できるようになりました。
いったん入れたものがすぐに吐き出せないのは毒素が強い場合なのかもしれません。毒素が強すぎれば病気にもなるし苦しみにもなる。だから、インプットには常にリスクをともなう(cf.「2009-04-30:知るということは危険をともなうこと(だから、おもしろい)」)。
これをあらためて読みながら、大事なのはアウトプットそのものではなく、毒をいったん体内にいれたあとの自分の身体の変化のほうなんだろうなと思いました。ここで変化といっているのは、毒素に対する免疫力の向上かもしれないし、バイタリティが高まることかもしれない。はたまた、毒が体内にはいることによる危機を乗り越えることによる精神面の強化なのかもしれません。
いずれにせよ自分の枠組みの外にある毒にも薬にもなる異物を体内に入れて、そこから何かを吐き出す過程での自分自身の変化、それが重要なんだろうなとあらためて思ったわけです。
そうそう。バイタリティに関しては「2009-04-25:絵を読む、言葉を鑑賞する」でこう定義しています。
- バイタリティ
- いまのポジションを外したり環境が変わったりした場合に、その人が生き残っていけるかどうかに関する度合。例えば、いまの会社を辞めて生き残っていけるか、もし、自分が社長という地位にあるなら社長という地位を追われて生き残っていけるか。
環境適応力といってもいいかもしれませんね。どれだけ環境に依存して生きているか、それとも、環境への依存度合いが低く自分自身の生命力をベースにしているか。
排泄物からは神も生まれる
じゃあ、アウトプットを創造する過程とそれを創造した人自身だけが重要であって、創造されたアウトプットのほうは意味がないかというとそうでもないんです。というのは、アウトプットがただの排泄物じゃないかと思ったのにはもうひとつ理由があって、それがアウトプットの価値とも関係しているんです。
「イザナギとイザナミ」というエントリーでも紹介した鎌田東二さんが古事記をわかりやすく現代語訳している『神様に出会える 聖地めぐりガイド』のなかのこんな一文をみてみてください。
国を生み終え、次は神を生むことにしました。伊耶那岐と伊耶那美は山や海、風などを司る三十五柱の神を次々に生みました。ところが火の神、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を産むと女陰(陰部)が焼けてしまい、伊耶那美は病気になって寝込みました。苦しむ伊耶那美の吐瀉物や糞尿などの排泄物からも、金属や粘土や水の神々が生まれましたが、ついに伊耶那美は亡くなってしまいました。鎌田東二『神様に出会える 聖地めぐりガイド』
伊耶那美の吐瀉物や糞尿などの排泄物から神々が生まれていますが、古事記には他にも排泄物から神やいろんなものが生まれてます。ようは昔の人も排泄物(アウトプット)を創造する者を神として崇めたんですね。現在も良質なアウトプットを生み出す人をすごいとか感じるのは、それに近いのかもしれない。その人にとっては体内の毒素を出すための排泄行為だったとしてもです。
まぁ、もちろん、ただの排泄物でしかないアウトプットのほうがたくさんあるわけですけどね。
人工物=創造物にこだわりすぎない
インプット/アウトプットって結局、そういう行為なんではないかと思います。生物が生きていくためには避けられない活動ではあるのですが、どちらかというと創りだされたアウトプットそのものよりも、毒を食らいながらも(もちろん皿まで)生き抜けるバイタリティを高めていくという活動のほうが重要なんじゃないかという気がします。だから排泄物であるアウトプットそのものにあまりにこだわりすぎるのはよくない。あまりに人工的に生産された物や仕組みばかりを重視して、それがなければ生きられないという風になってしまうと環境依存性が高まってバイタリティを失う。
むしろ、そんなものはいつでも自分で創りだせるからよいと思える人が、環境の変化にも生き残れるだけのバイタリティをもっているということになるんでしょうね。
リスクを負って外の毒素を食らい、そのことで自分自身を変えていく活動がその人自身のバイタリティを高めるんでしょう。もちろん、下手すれば伊耶那美のように死に至るリスクもあるんでしょうけど。
いずれにせよ、自分たちが生物だってこと忘れすぎちゃうとまずいですよね。インプット~編集~アウトプットって活動ってきっと本来的な生物の活動だと思うから。
その意味ではものづくりというのもあんまりエラそうにやるもんじゃないな、と。しょせんは排泄行為なんだしね。特にそれに執着しちゃうとまずいのかな、と。
それよりもますます悪く変化するであろう、この社会環境で生き残っていくためのバイタリティを高めていくほうに励んだほうが正解かな、と。
P.S.
それにしても「アウトプットができない人がまずやるべき3つのこと」。
なんで「コミュニケーション」だと理解しちゃうんでしょうね(「なんで」と書いてるが疑問形ではない)。
関連エントリー
- アウトプットができない人がまずやるべき3つのこと
- 2009-04-30:知るということは危険をともなうこと(だから、おもしろい)
- 間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?
- 小さなアウトプットの蓄積で完成形を生み出すための5つのプラクティス
- なぜ量が質を生み出す可能性を持っているのか?
- 量追及ゲームというオルタナティブなルール
- 好奇心とは独創的な問いを発見する情熱である
- Fw:本当に考えたの?(それは「考えた」と言わない。)
- リフレーミング
- 脳と日本人/松岡正剛、茂木健一郎
この記事へのコメント