2009-04-30:知るということは危険をともなうこと(だから、おもしろい)

昨日の「今日のびっくりどっきりメカ発進!」でのびっくりどっきりもあって、今日はなんとなく気分が冴えませんでした。

世の中の人って、いまや予測ができないこと、計算できないことを、あんな風に厭い、恐れるものなんでしょうか。何かを知るということのリスクを極力減らそうとし、自分だけは安全で楽なところから物事を操作しようとするのでしょうか。

はっきりいって、それなら学習や勉強をする必要なんてないと思います。
多読術/松岡正剛」というエントリーで、松岡正剛さんが〈読書はそもそもリスクを伴うものなんです。それが読書です。ですから、本を読めばその本が自分を応援してくれると思いすぎないことです。背信もする。裏切りもする。負担を負わせもする。それが読書です〉と言っているのを紹介しました。リスクを負って自分が予測も計算もできない方向に変わってしまうことを受け入れることが、知識を得るということだと思います。
前にも書いたとおり、「わかる」ということは「かわる」ことにほかなりません。それが嫌なら思考を停止させて、勉強などせずに一心不乱に目の前の労働に打ち込めばよいのです。

買い物に出かけても、近くの喫茶店で読書をしていても、頭のなかではそんなことばかりが思い浮かんだ一日でした。

知ることは危険なこと

まぁ、読んだ本もいけなかったんでしょう。昨日、amazonから届いた養老孟司さんの『手入れ文化と日本』を読んでいたからです。4冊届いたうちのその1冊を選んだのも、知識や情報に溺れる人びとについて書かれているだろうと思ったからです。

養老さんもやはり知ることは危険をともなうことだといっています。

今の時代になったら平気で「勉強しろ」と言うことは、知ることはいっさい危険じゃないと思っているわけです。

そのことを理解するための想像力をはたらかせる例として、養老さんは自分が癌で余命半年であることを想像してみなさいといっています。自分が癌で半年しかもたないことを知ったら、それを知る前とは自分がどんなに変わってしまうかはなんとなく想像ができるでしょうといっています。もちろん、どう変わるかまでは想像できないにしてもです。

知識は自分自身を変える

理論とか哲学みたいなものが何の役に立つのかわからないっていう人が多いと思いますが、僕はそのことの意味がわからないと前から思っています。知るということが自分が変わることだとわかっていれば、理論や哲学を知るということはそれがそのまま自分の一部が変わるということだとわかるはずなんですけどね。
であれば、個別の事柄をひとつひとつ知らなくても、根本となる理論や哲学を本質的に理解することで応用できるようになるはずなんですが、そういう理解の仕方ができる人って本当にすくないなって感じます。

そういう知り方、わかり方をせずに微妙に距離をとって自分とは別物だと思って接するから、理論や哲学が何の役に立つかわからない、具体的にどうすればいいのかわからないという話になるんですよね。事例がないからわからないとかいう話になる。あほかって思います。
そうじゃなくて、知るということはそのまま自分自身が事例になるということです。それを遠く離れたところから他人の事例をみてわかった気になろうというのが、そもそも知識というものを誤解しているんですね。

僕が「解剖を見せてあげようか」と言うと、多くの人が「嫌だ」と言います。なぜ嫌かという理由もよくわかります。そういうものを見てしまうと、ひょっとすると自分が変わってしまって、感じ方や考え方が変わるんじゃないか。その感じ方や考え方が変わった自分というのは、今の自分じゃ想像がつかないから、そういうふうな危険なことはちょっとしないでおいておこう。恐らくそういうことだと思います。

まさに、これだと思います。
僕も解剖はみたくないですが、自分が見たい知りたいと思ったことで自分が予想もしなかったほうに変わってしまうことは厭いません。いや、そもそも自分自身のことに関していえば予測や計算なんてことはほとんどしません。
他人がどう動くかとかは予測したり計算したりといったことをしますが、こと自分自身に関してはそれは無駄だと思っています。何か新しいことを知れば、変わってしまうこともあることは経験上よく知っているので。

恐れているものは何か?

よく好奇心旺盛な人を子どもの感覚をもっている人だとかいったりしますが、僕はこの養老さんのことばを読んでとても納得しました。

子どもには、そういう気持ちはありません。根本的にはないはずです。なぜなら子どもは日々育って、変わっていくからです。だから好奇心が強い。危ないことをする。そういうものなんです。

ある程度、恐れを知らずに危ない橋をわたる覚悟がないと好奇心なんてもてないんですね。

前に「間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?」なんてエントリーを書きましたが、実は多くの人が恐れているのはアウトプットすることで自分の間違いがあらわになることではないのかもしれないなって思いました。本当に恐れているのは、間違いがあらわになったときに、今の自分の考えが違うものになってしまい、自分自身が変わってしまうことなんでしょうね
まぁ、その意味では知ることのリスクもなんとなく無意識ではわかっているのでしょうか。でも、リスクは負わない。リスクを負うからこそ、知ることは楽しいのにね。

画面を操作するときには、画面からも見られ操作されている

養老さんは、現代人が知識を自分とは何か別物として、遠く離れたところからみている姿をこんな風に描いています。

それはおもちゃや、コンピュータや、さまざまな道具と同じことであって、知ることというのは、自分からは独立した別の作業です。私はそれを操作可能といいますが、知識が操作可能なものとして受け入れられていて、自分とは別だと、いうこと。そこが重要です。

知識というものをUI上の情報やテレビの映像のように自分とは無関係に存在するものとしてしか捉えていないから、それを客観的に操作可能なものとしてだけ見てしまい、その向こうにあるものと自分とのあいだの相互作用を感じとることができないんでしょうね。
実際には自分が画面をみながら操作しているのと同時に、画面の側からも自分が見られていて操作されているのだということに気づかないのでしょう。

数寄も、侘びも、風情もない

それに気づかないからこそ、予測だの計算だの、自分とは無関係なところでリスクも負わずに物事を操作できると考えてしまうのでしょうね。そのことで自分自身がどんどん退化していくというリスクを負っていることも気づかずに。

昨日の「2009-04-29:布地にこだわる」で書いたように、手ぬぐいやTシャツの布地の変化を感じながら自分もそれとともに変わっていくのだということがわからないし、ものづくりというものもそういう視点で捉えられないのでしょう。だから、新品のままの状態を固定することを理想とするようなものづくりになってしまい、それを使う人も作る人も成長のない状態に固定することになってしまうんでしょう。養老さんはそれを都市化と呼びます。そこには数寄も、侘びも、風情もない。これは非常に残念なことだと思います。

では、最後に恒例の今日の夕食。豚の味噌焼きにアサリとホタテの酒蒸し。



 

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