喜びも悲しみも大家に集まる

宮本常一さんの『日本人の住まい―生きる場のかたちとその変遷』を読んでいます。



宮本常一さんの本はこれまで読んだ『忘れられた日本人』『日本文化の形成/宮本常一』もおもしろかったんですが、これがまた、住まいのかたちから日本人のかつての暮らしや社会がわかって、非常におもしろく感じます。

日本人の暮らしというと畳の生活を思い浮かべたりしますが、実は明治の初め頃までは土間にもみ殻や藁を敷き、その上にむしろを敷いて暮らしていた家が多かったとか、主人は納戸に寝ていて、窓のない納戸は寝床も敷いたままの万年床だったとか。意外と僕らがイメージしている日本人の昔の生活というのは、根拠のない想像であることがわかります。

大きな土間をもつ大きな家

ほかにおもしろなと感じたのは、大きな民家についての話です。
東日本や能登半島には非常に大きな家が多かったそうです。どのくらい大きいかというと40坪、50坪という家は結構あり、100坪を超える家も少なくはなかったといいます。敷地の面積ではなく、家屋の広さですよ。そこに20人、30人という人が住んでいたといいます。

特に寒いところでは家が大きかったそうです。家の中の土間で作業をしたのがその理由のひとつだそうです。稲汲きなどの作業を土間で行ったといいます。土間はニワとも呼ばれていました。

もちろん、そうした大きな家をもつのは、その土地の名手、地主と呼ばれたような人たちでした。手作(てづくり)といって、地主が家族や奉公人などの自家労力を使って耕作する場合は、土間で作業をしたし、東日本では土間に馬屋が併設されてもいました。

間取り図をみるとほとんどの家が非常に大きな土間をもつことがわかり、必ず土間がみえる位置に囲炉裏をもつ台所が配置されているのがわかります。主人は囲炉裏のヨコザと呼ばれる場所に座り、それぞれの仕事を割り当て、ヨコザから土間で働く仕事をする人を監督しました。また、ヨコザからはカマドも風呂もみえるので火の見張りをするのも主人の役目だったそうです。



喜びも悲しみも大家に集まる

なぜ、そのような大きな家に大勢が住む暮らしをしていたのかというと、家を小さく分けて家計を別々にしてしまうと家の力がきわめて弱くなってしまうというのが中世の終わりまでの社会だったそうです。
家が弱くなってつぶれるだけでなく、村の中心である地主の力が弱まれば、村そのものの危機にもなってしまうのでした。

地主の家はただ大きいだけではなく、農業の他にもいろいろな加工製造業を営む、規模の大きな企業的経営を行っていたそうです。これは前に紹介した網野善彦さんの『日本の歴史をよみなおす』でも指摘されていたことです。こうした農業以外の加工製造業や廻船業に従事したのも、やはり村の生命を守るという面もあったといいます。

農業だけでは凶作その他の災厄に対する抵抗力が弱く、とくに村の中心をなす家が災厄に耐え得る力がないと、一村が滅亡に瀕することがすくなくなかった。

こうした大きな家では、正月のニワオドリ、盆のおどり、小正月の田植踊り、神楽なども大家の家で行われたそうです。そうした年中行事も、喜びも悲しみも大家に集まってきたそうです。

ようするに大家を中心としたムラのコミュニティがひとつの社会であると同時に、いまでいう企業の位置にあるものだったのでしょう。ただし、そこには共同でおこなう労働だけでなく、共同で行われる暮らしもあったのです。なんとなく昔の人びとの暮らしのほうが社会性があったような感じを受けますね。

日本の企業はムラ的社会だなんていいますが、どうでしょう? そこに暮らしの共同性がない点では、それをムラ的と呼ぶのはどうかと思います。

日本の企業をムラ的と呼ぶのも、畳の生活が日本の暮らしだと思うのといっしょで単なるムラに対する幻想からではないかという気がします。

 

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