ひとりエスノグラフィ

2009-04-25:絵を読む、言葉を鑑賞する」で、ちょっと触れた「ひとりエスノグラフィ」というアイデア。

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先のエントリーでは、自分の行動と思考のギャップに気づかない人向けに、自分の行動を客観的にみるためのものとして紹介しましたが、実はアイデアの発端はそこではなかったんです。

もともとのアイデアはエスノグラフィを簡易化するにはどうしたらいいか?というところから出てきたんです。

つまり、普通の人が本格的なエスノグラフィ調査をするのはなかなかむずかしいでしょうから、てっとり早くエスノの構成員でもある自分の特定の生活行動をビデオに撮影して、人間の行動を観察してみるということはどういうことか体験してみましょうというアイデアです。

人はほとんどの行動を意識せずに行っている

『ペルソナ作って、それからどうするの?』でも書いていることですが、人はほとんどの行動を意識せずに行っています。当たり前です。いちいち意識してたら普通に行動できません。
キーボードを打つのを意識したり、歩き方を意識したりすると、途端に普段できているはずの行動が破綻してしまうはずです。意識の外に追いやってるからこそできる行為というのが非常に多くあるのです。

M. チクセントミハイは、人がほとんど意識なく行為に没頭している状態をフロー状態と呼んでいます。人間が自分自身が行為していることすら忘れて何かに夢中になっている状態です。

そこまで没頭することは多くはないにしても、それでも自分がやっている行為をきちんと説明できる人なんていないし、そもそも自分のやり方というものを客観的にわかっている人もいません。
ただ、自分の思考と行動のギャップに気づいていない人は、自分が何かを行う行動をちゃんとわかっていると勘違いしていたり、自分の知っている方法を自分がちゃんと使いこなせていると見間違えていたりするわけです。

我見、離見

実際、僕がひとりエスノグラフィのアイデアを思いついたのも、自分がインタビューしている映像をみて、自分のやってる行為がとても不思議なものにみえたことがあったのを思い出したからです。

視野は広くを意識して」というエントリーで、世阿弥の我見と離見という話をしました。

見所より見るところの風姿はわが離見なり。わが眼の見るところは我見なり
世阿弥『花鏡』

つまり、舞台に立っている自分の目線でみるのが我見。それに対して、舞台に立った自分を外からみるのが離見です。

実際に世阿弥のような境地にたてない僕らはてっとり早くビデオに自分を撮影して、自分の行動を客観的にみてみるというのもありかな、と。
野球の選手が自分のスイングや投球フォームをチェックするようなものです。客観的にみてはじめてフォームのどこが崩れているのかに気づいたりする。それとおなじでビデオの映像としてみることではじめて、普段の自分が意識せずにやっている行為=自分のやり方が客観視することができるだろう、と。

リフレーミング:自分のフレームの外にでる

なので、ふくさんが「ひとりエスノグラフィ」に反応してくれたことは嬉しいのですが、その理解はちょっと違うかなと思います。

「ひとりエスノグラフィ」の1つとして、
"自分に問うこと"があるのかなぁと感じます。

"自分に問うこと"はやっぱり我見の範囲内です。
意識してる行動を相手にするなら、最近僕が週末にやってるような日々の行動をブログに書くだけでもいい。でも、それだけじゃ足りないんですね。それでけでは足りないということに気づくことが、まず大事です。特にすくなくとも自分の行動と意識のギャップに自分で驚くことがない人にとっては。

自分の意識では問えない部分があるからこそ、自分の意識のフレームワークの外に出るためにビデオという機械の力を借りましょうというのが、「ひとりエスノグラフィ」の一番のポイントです。努力しても、もともと意識の外にある行動を、意識的に問うことはむずかしいのですから。

そして、実はこれ。自分の行動をみる場合だけでなく、他人の行動でもそうですし、はたまた自分が普段何を見ているつもりなっているかというところにもつながってきます。
人は見ているつもりでほとんどのものを見逃している。その見逃しに気づくためにも「ひとりエスノグラフィ」という方法はありかな、と。

ビデオエスノグラフィという手法に意味があるのもここでしょう。そのまま見たのでは見逃してしまう部分を、ビデオの映像を使うことでリフレーミングできるんですね。

無意識のやり方に気づく

まぁ、「ひとりエスノグラフィ」なんてことをしなくても勘のいい人は「情報摂取の場・過程・作法をみなおす」で書いたような、作法の見直しによって自分の見方を変えたり、グループワークを積極的に利用して他者の見る目に接することで、思考と行動にはあくまでギャップがあるということに気づくのでしょうけど。

とにかく無意識に行っている行動にもやり方=作法があるということに気づくことが、人と物とのインタラクションをデザインするうえでは大事なことです。このあたりになると、エスノメソドロジーとも関係してきますよね。
無意識の作法に気づかずにインタラクションをデザインしてしまうから、思考停止助成ツールみたいな道具ばかりができてしまっているのかなと思います。

  

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