2時に会って、お茶をしたり、餃子を食べたりしながらずっと話していた。
こんなに長い時間、ずっと人と話をしたのは何年ぶりだろう。
行動と意識のギャップ
たとえば、自分の考えてること、思っていることと、自分のやってることのギャップに気づかない人がいるねという話をした。自分の思考と行動のギャップに気がつかないのだから、他人と自分の認識や生きる世界が違うということもイメージできていない。
自分の世界にとじこもったきり。
しかも、その世界には自分がまわりの環境に対して行っていることの環境側からのフィードバックの要素すらはいっていない。
完全にひきこもり。物が見えていない人がいるね、という話をした。
そこまで極端な人は数は少ないけど、視野が狭いという人は結構いる。
自分の専門分野にしか興味をもたず、外の人と協働作業ができなかったり、
知っている手法だけに凝り固まって応用したりできないし、知っている手法同士をつなげて使うこともできない。
そんなことを話していて、ひとりエスノグラフィという発想が浮かんだ。
特定の活動をしている自分をビデオで撮影する。バットで素振りをしているところでも、PCでインターネットを閲覧しているところでもいい。
それをあとで見返すことで、自分が意識せずに行っている行動、クセなどが発見できる。スイングのときに右肘が下がっているなとか、広告は見ていないようで意外と見ているなとか。
そうすることで客観的に自分を知る。
結局、自分を知るということが世界を知ることのスタートなのだと思う。
絵を読む、言葉を鑑賞する
しかし、問題はまだある。言葉に読んだり聞いたりすれば何かしらの反応はできる人が、言葉のない絵だけをみせると途端にフリーズするという話もした。
言葉を読み聞くスキルはあっても、おなじように絵を読み解く力がない人が多いのだ。
どこをどう見ていいかがわからず、一枚の絵としかみれない。
そこに人が描かれているのを切り取ったり、何やら淋しげな表情をしていることを読み取って、なぜ、そんな淋しげな表情をしているのかとまわりの景色に目を向けたりすることができない。
それはきっと店舗内に据え付けられた防犯カメラの映像をみせられているようなものなのだろう。
淡々と流れるその映像はどこをみていいかわからない。
ただし、その店で何か犯罪が起こったら別だ。あやしげな犯人と思われる人物にフォーカスが絞られ、とたんにその映像はストーリーをもちはじめる。
結局、絵が読み解けないというのはそのストーリーを生み出すフォーカスの欠如の問題である。なにかにフォーカスをあて、図と地の境界を見いだせなければ、何も絵からは浮かび上がってこない。
それとおなじことが、ひとりエスノグラフィで自分の行動を撮影しても起こるだろう。
そして、おなじようにフィールドワークによる観察をはじめとする多くの調査でも起こっていることだろう。
何かをみたり撮影したりしても、そこにストーリーを読みとるためのフォーカスがなければ、それは淡々と流れる防犯カメラの映像と変わらない。
絵が読めないのは、そうした図と地の関係を自分自身で切り取ることができないからだろう。一方で言葉を読むときには、文章ではっきり示された図と地の関係をはみでて思考することができない。そこにはひとつの読み=答えだけがあると誤解してしまっているのだ。
ディレクション
このご時世、多くの企業内で耳にしそうなのは、売上をあげろという無意味な掛け声だろう。売上をあげろなんて当たり前で、それをいわれたからといって何も行動はできない。計画は?というと、金額のみをしめす。そんな話もした。それは計画ではない。すくなくともアクションができる計画ではない。
売上目標○円だといわれているのは、10km先に進めとだけ言われているようなものだ。
目的も手段も伝えられていなければ、どこに向かえばいいのかもわからない。それでは人は進めない。
それはアクションプランではなく、絵に描いた餅だ。
ユーザーフレンドリーであるということは、一定時間内におかす間違いの数が少ないという問題にとどまらない。それは、混乱に対処できるという信頼感に根ざしている。この信頼感を、デザインが支えることができるのである。クラウス・クリッペンドルフ『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』
人は迷う。迷わないようにすればよいのではない。迷った時に対処できるようにディレクションを行うことが必要なのだ。答えを与えるのではなく、行動規範になるような方向性を与えることがディレクションであり、計画である。
10分以内に渋谷のどこそこへ行け。そこで誰それがメシをおごってくれるそうだ。
そう言われてはじめて、人の身体は動くのだ。
バイタリティ=生命力
ただし、論理的な計画さえあればよいわけでもない。ディレクションをする人のバイタリティもこのご時世、重要なのだと思う。
バイタリティ=生命力だ。
バイタリティ=生命力があるとはどういうことかというと、いまのその人のポジションなりを外して考えたときに、その人が生き残っていけるかということだ。
その会社を辞めて生き残っていけるか、その人が社長なら社長という地位を追われて生き残っていけるか。
そういう環境適応性に余裕を感じられる人なら、バイタリティ=生命力が感じられるのではないか。
いまのポジションに甘じて、何かえらそうなことを言っているだけなら、それはその地位にない人の身体を動かすことばにはなりにくい。
結局、それも自分を知っているかということにつながるのだと思う。
そんなことを一日語り合った雨の土曜日。
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