アブダクション―仮説と発見の論理/米盛裕二

昨日の「意味論的なデザインのアプローチへの転回」ではジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論―宇宙の意味と表象』という本を紹介しました。昨日も書いたとおり、ホフマイヤーの本はチャールズ・サンダース・パースの論理学・科学哲学をベースに生命を記号として捉えた非常にユニークな一冊です。

この機会にチャールズ・サンダース・パースについて、もうすこし紹介しておきたいなと思ったのですが、パースの著作は『パース著作集』『連続性の哲学』などでいちおは読めるものの、元々が断片的であるために理解しづらいところがあるのは否めないのです。

多読術/松岡正剛」でも書いたとおり、もちろん、そうした困難な壁にぶち当たっていくのも読書の醍醐味・楽しみ方のひとつだと思いますが、とっかかりとして紹介するには、思想そのもののむずかしさはともかく、文章としての読みやすさはあったほうがよいなと思いました。
そこで今回紹介するのは、先の『パース著作集』の翻訳者にも名を連ね、『パースの記号学』という著作もあるパースの研究者である米盛裕二さんの『アブダクション―仮説と発見の論理』という本にしました。

アブダクションとKJ法

実はこの本自体、前から紹介しようと思っていた一冊です。川喜田二郎さんの『発想法―創造性開発のために』について書評を書いたときにも、川喜田さんの発想法そのものが非常にパースの3つの推論、とくにアブダクションと関係が深いために続けて紹介しようと思ったのですが、結局、紹介する機会を逃してしまいました。

W型問題解決モデル」というエントリーでも書きましたが、川喜田さんの発想法というのは、書斎科学、実験科学、野外科学の3つから構成されており、それがそのままパースが3つの推論の方法と呼んだ演繹、帰納、アブダクションの3つに(ほぼ)対応していると考えてよいかと思います。

W型問題解決モデル


科学的論理的思考の方法または様式として、一般に、演繹(deduction)と帰納(induction)の二種類があげられます。しかしアメリカの論理学者・科学哲学者チャールズ・パース(Charles S.Peirce, 1839~1914)は科学的論理的思考には、演繹と帰納のほかに、かれが「アブダクション」(abduction)または「リトロダクション」(retroduction)と呼ぶ、もう一つの顕著な思考の方法または様式が存在し、そしてとくに科学的発見・創造的思考においてはそのアブダクション(またはリトロダクション)がもっとも重要な役割を果たす、と唱えています。

川喜田さんの発想法における「探検」「観察」「発想」と続く問題発見の過程がまさにアブダクションがはたらく科学的発見・創造的思考の過程です。KJ法そのものがアブダクションという推論様式を具体的な方法化したものだといえます。

アブダクションと人間中心のデザイン

米盛さんは〈ある意外な事実や変則性の観察から出発して、その事実や変則性がなぜ起こったかについて説明を与える「説明仮説」(explanatory hypothesis)を形成する思惟または推論が、アブダクションです〉といっていますが、まさにこれはフィールドワークで観察によって見つけた「意外な事実」をKJ法を通じて「説明仮説」として解釈するのが、W型問題解決モデルの発想段階です。
KJ法では、フィールドワークで集めた、まだ説明のつかない情報の群れを単位化し、圧縮化し、図解化し、文章化することで、データ全体を説明可能にする仮説を組み立てる。その仮説から演繹的に実験可能な推論を組み立て、実験を通じて帰納的な検証を行っていきます。

そして、僕らにとってこれが関係深いのは同時に、この観察からKJ法を経て問題発見にいたる推論の道筋が人間中心のデザインの上流工程にも重なるからです。
この問題発見、「説明仮説」の形成を経て、それをペルソナやシナリオとして表現し、さらにデザイン要件に落とし込む。まさにアブダクションは人間中心のデザインにおいても用いられる創造的思考の推論形式だといえます。
もちろん、プロトタイプ~デザイン評価でトライアンドエラーを繰り返す過程は、帰納的方法による推論の実践です。

結構多くの人が勘違いしてるように思いますが、人間中心のデザインというのはこうした発想・推論のしくみなんですね。どうもこの方法を使えば演繹的、機械的になにか答えが出てくると勘違いしてる人が実に多いのは困りものです。

アブダクションと帰納、演繹

ここであらためてアブダクションと帰納がどう違うかといえば、米盛さんの次のような説明が参考になるのではないでしょうか。

帰納は観察データにもとづいて一般化を行う推論であり、これに対し、アブダクションは観察データを説明するための仮説を形成する推論です。

3つの推論様式は、いずれも目の前にあるものから目の前にないものを生み出す思考方法です。ただし、3つの推論ではその導き方が異なります。

分析的推論である演繹では、前提となる「目の前にあるもの」のなかにすでに結論となる「目の前にないもの」が含意されています。数学の連立方程式の式と解の関係のように、前提と結論の因果関係が定式化されているため、観察者の違いに関わらずおなじ結論が推論されるものです。

一方の拡張的推論である帰納とアブダクションでは、観察者が異なれば解は異なります。

帰納に関していえば、自分の経験から「犬は吠える」ことを知っていた(「目の前にあるもの」)とすれば、それを一般化して「すべての犬は吠える」という「目の前にないもの」を推論することができます。とうぜん、経験では本当に「すべての犬は吠える」かどうかを確かめることは不可能ですから、部分から全体、特殊から普遍へと知識の拡張を行う推論形式である帰納は、演繹ほどの論理的必然性をもっていません。
白鳥に関する帰納の例では、旧大陸で観察された白鳥がすべて白かったことから「すべての白鳥は白い」と思われていましたが、その後、オーストラリアでブラックスワンが発見されると、この帰納的一般化は否定されました。帰納的推論の場合は前提が真であっても、結論が偽になる場合があるのです。

さらにアブダクションになると、もはや推論の正しさは求められません。むしろ、アブダクションの重要性は「目の前にあるもの」から、まったくかけ離れた「目の前にないもの」を発見することにあります。本書で繰り返し例にあげられるのがニュートンの万有引力の発見で、ニュートンは目の前のりんごの落下と地球と月の関係から、それまで存在しなかった万有引力という「説明仮説」を推論したわけです。

思考停止? いや、アブダクション欠如社会でしょ

最近、思考停止社会とか、みんな、自分でものを考えないとかいいますが、それをもうすこし明確にいうと、このアブダクションという推論をしていないのではないかという気がします。

これだけ、思考停止だとか、考えていないとかいわれていても、誰もがそれを自分のことだとちゃんと認識しないのは、実は誰もがそれなりに自分も考えていると思っているからではないでしょうか。たぶん、それは自己認識の間違いではなく、確かにそう思っている人も演繹的な方法では考えているし、時には帰納的な推論も行っているのだと思います。

ただ、先に書いたとおり、演繹的推論は誰がやっても答えはおなじわけで、傍から見れば「自分でものを考えない」ように見えますし、まさにその傾向がありそうだというのは前に「方法依存症」というエントリーで書いたとおりです。
帰納的推論に関しても、自分のすくない経験からそれ以外の可能性をほとんど考慮せず、安易な一般化に走る傾向がある。もちろん、本人は演繹的推論や帰納的推論をしているわけだから、まったく考えていないわけではなく、いちおは目の前にあるものから目の前にないものを生み出してもいるわけです。これを単に思考停止社会と呼んでしまっては問題の本質をついてないなと感じるわけです。

Re:本当に考えたの?

僕がいまの社会の問題は、単純な意味での思考停止でも、自分でものを考えなくなっているということでもなく、アブダクションという推論形式を使わなくなっている人が多くなっていることだと思います。
もちろん、アブダクションというのは基本的には、いわゆる連想も含むものですから、まったくアブダクションを行っていないなんていう人もいません。ただし、そのアブダクションからスタートする推論を、さらに帰納や演繹などのほかの推論形式と組み合わせて、最終的な自分の思考をアウトプットするまでの組み立てができていないのだと思います。

以前「Fw:本当に考えたの?(それは「考えた」と言わない。)」というエントリーで、「考える」ということには2段階があると書きました。以下の2段階です。

  1. 小さなアウトプットを重ねて穴=自分が何がわかっていないかを可視化する
  2. 問題が穴埋め問題に変換できたところで最終的な解決を導き出す

結局、これって1段階目でアブダクションを、2段階目で帰納を行ってるわけです。
でも、これをやらない。だから、それは「考えた」と言わないとなってしまうわけです。

これ、若者よりも、むしろ、いい歳した大人にこそ、問題だと思える話です。若者はまだそれなりにチャレンジ意欲があるので、うまく導いてあげればどうにかなる感じがありますが、意欲をなくした大人はどうしようもないですから。思考っていうのは体力がいりますから、若いころから慣れていないと体力がなくなる大人になったらいくら経験ばかりあってもどうにもならなくなります。

帰納は経験を重ねる過程のなかで規則(習慣)を形成し、アブダクションはたとえば種々の楽器の音からそれらの音そのものとはまったく違う調和的な音楽的情態を生み出すように、経験の諸要素を結合統一し、まったく新しい観念を生み出すのです。

この自分の経験の諸要素を結合統一し、まったく新しい観念を生み出そうという意欲とその実践が欠けてるのが問題。考えてるかどうかより、自分の生活・生き方・生命というものをあまりに軽んじすぎているのではないかと思います。自分の人生を他人の人生との相対的な関係でしか見られなくなっていたり、なにか人生の方程式があるかのように演繹的推論に頼ろうとしてしまっている傾向があるのではないでしょうか。

なんて、最後は話がおかしな方向に進みましたが、パースの思想に関しては、こうしたアブダクションや帰納などの推論がはたらく背景に、表象(sign)―対象(object)―解釈項(interpretant)の3項論理からなる記号過程が動いているとされています(詳しくは「ブランドとは何か?:1.A Model of Brandとパースの記号論」を参照)。

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この情報が人と絡み合いながら、相互作用的に情報が動いていくというインタラクティブでダイナミックなプロセスを捉えているところが、「意味論的なデザインのアプローチへの転回」や「情報摂取の場・過程・作法をみなおす」で書いたあたりとの関係で非常におもしろい。

そんなことも含めて、なんか自分ってちゃんと考えられていないかなという自覚症状がある人や、情報と人間のインタラクティブな関係について考えてみたい人は、ぜひこの本を読んでみてください。



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この記事へのコメント

  • 鈴木利和

    はじめまして

    アブダクションに引かれて、こちらのページに来ました

    大学院で、野中郁次郎・紺野登の『知識創造の方法論』を学び、観察・概念化でアブダクションに触れました。自分なりに方法論を深めてまいりましたが、意見交換ができる人が周囲にいなくて、困っておりました

    現在、ベトナムに駐在しておりますが、5月9日~19日にかけて帰国いたします。もし、可能でしたら情報交換させていただけませんでしょうか

    5月27日のワークショップに参加できれば良かったのですが、残念ながらタイミングがあいませんでしたので、お忙しいところとは存じますが、ご検討いただけましたら幸いです

    よろしくお願いいたします
    2009年05月06日 15:44
  • のぶし

    発想じたいは人間の閃きに任せればよいと思うのですが
    仮説の検証をやっかいに思ってます。
    人間相手の場合は、科学実験と違い検証自体が対象に影響を与えるし変化も早く、検証のチャンスも限られています。
    何かいいヒントがあれば御教授お願いします。


    2009年05月10日 08:10

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