使う人とその物の関係で名前が「プール」「ボウル」と変わります。
さらにいえば、たとえ名前は相変わらず「プール」と呼んでいても、意味合いが変わります。
使う人とその物がその瞬間にどういう関係であるかによって、使われ方が変わる(場合によっては名前が変わる)と捉えるとおもしろいです。
アメリカの家庭の庭にある水のはいっていないプールを、少年たちがスケートボードの遊び場として使う場合、それは「ボウル」と呼ばれるそうです。
なんで、こんな話がでてくるかというと、先のエントリーで僕がこんなことを書いたからです。
使用する前にはまだ意味が生まれていません。ただ、使用の瞬間に突然、何もないところから意味が生まれるというのでもない。使用する時点で人は自分が過去に利用してきた別の人工物と比較しながら、新しい人工物の意味を推測します。それが使用のスタートであり、物の意味のはじまりです。
と。
物は使われる前から決まった意味をもっているのではなく、人が実際に使うことではじめて意味をもつのだということをいったのですが、その具体的な例を藤井さんがあげてくれたわけです。
意味を与えることと間違いを犯すことは一つの根本的な現象の両面
もちろん、プールをボウルとして使う以外にも、もっと身近にそういう例はたくさんありますよね。椅子を高いところのものを取る場合の踏み台にするとか、荷物を置く場所にするとか。コピー用紙を手書きで何か書くための紙として使うとか。ふつうはこういう使い方は代用品としての利用と考えられるわけです。座る道具である椅子を踏み台や物置に代用してるとか、コピー用の紙をメモ用紙に、プールをスケートボードの遊び場に代用してる、と。もしかすると、それらをデザインした人にいわせると、そういう使い方は間違いであるというかもしれません。
でも、「情報摂取の場・過程・作法をみなおす」で読んでみることをおすすめしたジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論―宇宙の意味と表象』という本にはこんなくだりがあります。
想像力とは間違いを創造的に活用することに他ならない。
基本的に、知的操作は全て人の犯した間違いを発見することから成り立つ。このことによって私たちは賢くなれる。結局、間違いからでなければ何によって私たちは学ぶことができるというのか。(中略)
意味を与えることと間違いを犯すことは、決して分けることのできない一つの根本的な現象の両面なのである。ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論―宇宙の意味と表象』
「意味を与えることと間違いを犯すことは、決して分けることのできない一つの根本的な現象の両面」だといい、「間違いを創造的に活用すること」を想像力だといっています。椅子を踏み台にするのは間違った使い方かもしれませんが、同時に想像力から生まれた椅子という物の別の意味=使い方であるわけです。
物の意味は決して固定化されているわけではないのです。意味はそれがただひとつの正解という形で固定されているのではなく、習慣化されているのだと考えたほうがいいのではないかと思います。椅子は座るものとして、プールは水をはって泳ぐものとして習慣化されている。その習慣化された意味をアフォーダンスと呼んでもいいでしょう。
ホフマイヤーはこの『生命記号論』という本のなかでパースの記号論・哲学をベースにしながら、その思想を生命そのものへと拡張していますが、その際、パースの思想の要点は「自然には習慣化する傾向がある」という点だと述べています。正しい状態がひとつあるのではなく、習慣化されてよく起こるパターンとあまり頻度が高くは発生しないレアケースが無数にある。もちろん、そのレアケースは決して間違いではないし、習慣化されたものに比べて無意味というわけでもないでしょう。
ただ、習慣的に人はそれを間違いだと感じますが、その間違いが想像力によって有意義に活用されるとき、物には通常とは違った意味=習慣化されていない意味が浮かび上がってくるのではないかと思います。それをホフマイヤーは「意味を与えることと間違いを犯すことは、決して分けることのできない一つの根本的な現象の両面」といっているのです。
メッセージはそれを構成する物理化学的要素と因果関係をもたない事柄のきっかけとなる
また、ホフマイヤーは「メッセージとは、そのメッセージを構成する物理化学的要素とは直接に関係しないことがらを引き起こすきっかけとなる」ともいっています。その際にホフマイヤーは、パースの三項論理における記号過程にならって記号(sign)―対象(object)―解釈項(interpretant)を想定して、観察者による解釈こそがメッセージを物理化学的要素とは直接に関係しないことがら=意味を引き起こす要因と捉えています。ユクスキュルの観察では、動物はその一生をいわば自分自身の主観世界、それぞれの環世界の中に閉じこもって過ごすことになる。現在の生物学ではそれに対して生態学的地位という客観的な用語が当てられている。それは特定の種が生存するための生活場所、食物、温度などその他一連の条件で特定された状況を指す。ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論―宇宙の意味と表象』
それぞれの動物種がおかれた生存環境と自身の環境を知覚する能力とによって、生物種ごとに個別の世界があるというユクスキュルの環世界という概念を想定しながら、ホフマイヤーは物理化学的要素がまったく同一のメッセージでも、動物種が違えば意味は異なるし、また同一の種―おなじ人間―であっても、それぞれが生きる生活環境、歩んできた歴史、その場の状況などが異なればおなじメッセージでも違う意味に読みとる可能性があることを示しています。
しかしそうなれば環世界に通じる門はすでに開かれていることになる。なぜなら、主体が知覚するものはすべてその知覚世界になり、作用するものはすべてその作用世界になるからである。知覚世界と作用世界が連れだって環世界という1つの完結した世界を作りあげているのだ。ヤーコブ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』
結局、意味というのは、ユクスキュルが1つの完結した環世界を「連れだって」つくりあげる要素としてあげる知覚と作用の相互作用によって現実的な行動とともに生まれるものだということなのでしょう。プールがボウルになるのは、実際にスケートボードで滑ってみて「滑れる」ということが知覚的にも作用的にも実現されたからにほかなりません。
とはいえ、トイレの便器はどんなに頑張ってもボウルとなることはならないように、人が物に意味を生み出すのはまったく自由であるというわけではなく、あくまで人間の環世界で可能な意味の範囲というのが確実にあるのだろうと思います。
デザインは人々の技術に相対する現実的行動に関わっている
だからこそ、その人間の環世界で可能な意味の範囲を探り、それを実際の生活のなかの行動として実現されるよう、物に意味を与えるのがデザインという仕事なんだと思います。物の意味というのは、先のホフマイヤーのことばどおりで物理化学的要素の構成さえ決めれば、それで決まるというものではありません。しかし、多くのデザインがその物の構成を決めるだけでデザインができたという風に考えてしまっています。
ここ最近のエントリーで繰り返し紹介しているクリッペンドルフの『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』では、自然科学をベースとした工業的、エンジニアリング的発想と、人間中心のデザインの発想の違いが次のように記述されています。
ルネサンス以来、自然科学は、自然があたかも観察者から独立して存在するかのように、また観察の記述に用いられる言語に影響されないかのように、また観察されていることやどのように分析されているか理解できないかのように、自然を探求してきた。自然科学が創り上げるシステムは機能的で因果的なシステムであると考えることによって、エンジアニリングはその対象の能力に対して同じ態度を示す。機械的なシステムもまた、何か理解できるとは仮定されないのである。しかしながら、デザインは現実のこうした構成においてはうまくいかない。デザインは人々の技術に相対する現実的行動に関わっている。人びとは人工物を理解し、自らの世界を創造し、予見や知性や感情を持ち、観察されたものに応答し、お互いにコミュニケートし合い、デザイナーともコミュニケートする。クラウス・クリッペンドルフ『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』
クリッペンドルフが『意味論的転回』で語る「転回」のひとつが、人工物をデザインする際のスタンスとして、この自然科学的な視点から人間中心の視点―人びとの現実的行動を中心においた視点―への転回です。
つまり、それは科学技術を用いた物理的な物の生産を実現するという工業的な発想のデザインから、物に人びとが理解し価値を感じられる意味を与える活動としてのデザインへの転回なんですね。
意味論的なデザインのアプローチへの転回
ここまでホフマイヤーやユクスキュルの例などと通じてみてきたように、おなじ物に接したとしても誰もがおなじ意味で捉えるとは限りません。個々人が歩んできた人生、その場の状況、文化、価値観によって、おなじ物でも意味は異なる。それが実際に人びとが暮らす生活の場での現実的行動として起こっていることです。椅子は踏み台に、コピー用紙は手描きのメモ用紙に、プールはボウルとして扱われることもある。ところが、これまでの技術中心のデザインの発想では、同一の物であれば観察者が誰かに関わらず同じ意味=価値をもつものとして捉えてしまう傾向がありました。ある物は機械論的な因果関係によって誰が用いても同じ結果=意味をもたらすシステムとして考えられ、それを機能と呼びました。
しかし実際には、物の意味は利用者との相互作用的なコミュニケーションによってしか定まらない。人びとは現実世界で物に触れる現実的な行動そのものによって物が特定の意味をもつ自らの世界を常に再生産し続けているというのが、クリッペンドルフが提案する意味の転回されたデザイン観です。
つまり、クリッペンドルフが転回として提案しているのは、これまでの物と物の作用を中心に考えてきた機械論的な技術中心のものづくりから、物と人が意味を介してコミュニケーションするためのインターフェイスとしてのデザインを考えていかなくていけないだろうということなんですね。
ここでインターフェイスといっているのは何もコンピュータで用いられるUIのことだけではありません。車のインパネもさまざまな機器のリモコンも包丁の刃と柄の違いもすべて人と物とのインターフェイスです。そのインターフェイスがきちんと人と物とをつなぐ有意義な意味として理解されるようにするにはどうするかを考えることが人間中心のデザインだといっています。つまり、それは意味論的なデザインのアプローチです。
この地点でようやく「情報摂取の場・過程・作法をみなおす」で書いた情報摂取=意味の発生する場・過程・作法ということがいかにデザインに関わる人にとって重要かということに話がつながります。
このあたり意味論的なアプローチでのデザイン活動をどれだけ実践的にやっていけるかが、今後のデザイン能力の質に大きく関わってくると思います。
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