情報摂取の場・過程・作法をみなおす

すこし前に書いた「テキスト情報過多の時代に人は何を感じるか」というエントリーに、べええさんがトラックバックをくれました。

この変化には、以下の2点が看過できない点だと考えました。
1つ目に、アナログ情報をデジタル化したときに情報落ちが発生します。デジタル化が進めば進むほど、欠落する情報が多くなる事実があると考えています。
2つ目に、情報過多の現代では、アテンションの方に重点が移っており、情報自体の価値がおざなりになっている事実があると考えています。

僕は先のエントリーで「テキスト化された情報に接する比率が増え、まわりの環境も自然物よりも機械化、デジタル化されたものの比率が増えているいまの環境では、そうした自分自身の感覚の変化によって情報が変化したり、また対象物のほうも静止することなく刻々と姿形を変えることで、得られる豊潤な情報というものが身のまわりから失われているのかなと感じます。」と書いたのですが、それに対するべええさんの反応が上記です。

ついでなので、この点についてもうすこし考えてみようか、と。

具体的には、

  • :経過とともに情報空間を経験する
  • 作法:情報摂取のやり方を見つめ直す
  • 意味:伝達ではなく相互作用として

の3つについて考えてみます。
情報デザインやインターフェイスデザインに関わる人にはぜひ読んでいただけたらと思います。相変わらず、というか、いつにもまして長文ですが、印刷してでもいいので読んでみてください。読み方は本文中に書いてありますw
むずかしい内容かもしれませんが、むずかしい壁にぶつかってみてほしいなと思います。<読書は「わからないから読む」。それに尽きます。本は「わかったつもり」で読まないほうがゼッタイにいい。from 『多読術』>ですから。まぁ、本1冊に比べれば、はるかに量も少ないですしね。

場:経過とともに情報空間を経験する

べええさんは「デジタル化が進めば進むほど、欠落する情報が多くなる事実がある」と書いていますが、情報デザイン、ユーザーインターフェイスというところに焦点を絞って考えてみると、欠落する情報というのは何より場の情報過程の情報ではないかと思っています。
つまり、どこでどうやって、その情報を入手したのかという経験的な情報です。

松岡正剛さんが『多読術』のなかで触れていたことなので詳しくは読んでいただきたいと思いますが(書評はこちら)、読書とネットやケータイでの情報収集の一番の違いは、情報が場を占有する度合いです。

松岡さんのように何万冊ももっている人はもちろん、ある程度、本を読む人で、その本を持っておきたい人であれば、本の収納というのは結構な問題です。実際、僕も書棚に本が入りきらず、どうしようかと困ってます。それがインターネットの情報であれば、個々人のレベルではまったく場所をとりません。検索すれば情報は見つかるし、必要な情報はブックマークしておくこともできます。ラクといえばラクですよね。

でも、松岡さんは、決してラクではない、本棚が占める場こそが実は重要だといっています。物理的な場を占めるからこそ、物理的な生物である人間は情報から思考を働かせることができるのだといいます。
僕もまさにそのとおりだと思っていて、似たようなことを「本は「欲しい」という前に買え」というエントリーで書いています。本を読むためには、手元の見えるところにためておくのが一番だというようなことを書いていますが、一度読んだ本のことを思い出して、そこから再び思考を膨らませるという意味でも物理的な場が必要だと思っています。

これが同時に、情報に触れる過程に関連することでもあるんですね。
先ほど、ネットでは検索すればすぐに情報に触れられると書きましたが、そこでは情報に触れる過程が消えてなくなってしまっています。検索すれば目的の情報にすぐにたどりつけてラクですが、やっぱりラクした分、大事なものを欠落させてしまっている。
本であれば必要な情報に行き当たるまでに、とりあえず書かれた文章に沿って読み進んでいく必要があります。その過程で目的の情報以外のものにも出会え、目的の情報にたどりついた時にはすでにそこへたどり着くための文脈ができています。手間ではありますが、この手間が大事だと思います。

べええさんはアテンションに重点が移ってしまっているといっていますが、まさにそのとおりで、アテンションを与えないと情報を摂取できないんですね。しかるべき場、しかるべき過程を経験できないので、知のプロセス、思考のプロセスが身体的にはたらく余地がなくなってしまっています。そうしたインターフェイスを前にしたら、ピンポイントで目的の情報にたどりつくしかありません。ただ、ピンポイントであるということは、それ以外の情報を欠落させてしまうということにほかなりません。

場という情報、過程という情報の価値を見直すことが、いまの情報デザイン、ユーザーインターフェイスのデザインには必要かと思っています。

作法:情報摂取のやり方を見つめ直す

次の「作法」というのも、場・過程ということに関連しています。

多読術/松岡正剛」というエントリーでも書きましたが、僕は本を読むときに本に下線をひいたり書き込みをしたりします。松岡さんは「本はノートである」という言い方をしています。

2009-04-18:髪を切り盆栽の手入れをする土曜日」では、養老孟司さんが2Bの鉛筆がないと本が読めないという話も紹介しました。

ぼくが本人に聞いたところによると、養老孟司さんは2Bの鉛筆でマーキングするんですが、2Bの鉛筆が電車の中や旅行先でないときは、その本に集中できなくなると言っていた(笑)。つまり2B鉛筆が手元にないと読む気がしないんです。2Bが養老読書術のカーソルなんですね。

その際、僕の読書のカーソルは緑の蛍光マーカーだといいましたが、実は例外もあるんです。それは横書きの本を読む場合です。横書きのときはこんな風にシャープペンでマーキングしてるんです。

2


これにはちゃんとわけがあって、電車のなかで読みながらマーキングするとき、横書きの本では蛍光マーカーでは線がうまくひけないんです。横に線をひこうとすると、どうしても本の湾曲した状態にそってペンを走らせなくてはいけないのですが、それが太さのある蛍光マーカーだとうまくいかない。縦書きだと湾曲したラインと垂直にペンを走らせるので問題ないんですけどね。

というわけで、本を読むのにも作法があると思うんです。松岡さんはお茶とせんべいを用意して読む本もあれば、本を読むときに服を着替えるなんてこともしてるそうです。つまり、本を読む行為が作法をようする身体的な活動になっている。もちろん、本の場合にだけ作法があるのではなくて、実は人間って情報を摂取する行動をその作法と同時に行っていて、かつその作法と同時に記憶もすれば思考もしているのだと思います。
この作法というのが先の「場」、「過程」につづく第3の情報摂取の方法として見落とせないものだと思っています。

いまの情報と人間の関係の捉え方って、こうした情報接種の「方法」というところをあまりに軽んじてしまっているのだと思います。

意味:伝達ではなく相互作用として

たとえば、さっきの写真でもそうですが、僕は本を読みながらただ著者の書いていることを追っているのではなくて、線を引いたり、矢印で文章と文章をつないだり、書き込みをしたりしながら、自分自身の思考を編集していたりもします。本の上であればこれができますが、ブラウザ上やケータイのインターフェース上ではこれができない。やろうとすればパワポにコピペしてとなりますが、そうなると元の文脈が消えてしまう。本の上でなら、いくら編集しても元の情報はそのままなので、ちょっと違う。
こういう作法と情報の関係をうまく結べないという点に、情報を扱いにくくしてしまっているひとつの要因があると思っています。

だいぶ前(2006年!)の「<と>」というエントリーで僕はこう書いています。

記号の伝達はクロード・シャノンの情報理論で扱えますが、情報の中身(意図)の伝達=コミュニケーションはその情報理論では扱えません。

いまの情報モデルって、このシャノンの情報理論をベースにしてしまっています。つまり、情報の単位をビットだと考え、そのビットがAからBへどれだけ伝達されたかというモデルです。

でも、実際の情報と人間の関係ってそうではありません。松岡さんが読書は編集過程だといい、意味の交換だというように、情報はAからBへ伝達されるのではなく、AとBのあいだで情報を使って意味の交換がなされているのです。
そこでは師匠が弟子に型を教える際に、型はそのままでは伝達されず必ず弟子によって類似物として再生産された形で再帰してきます。ようするにマザータイプとしての型が個別の形を生む。このあたりは「型と形」も参照ください。
コミュニケーションのモデルというのもそうした再生産のモデル、型から類似の形を再帰させるモデルとして捉える必要があるのですが、それが現在の情報モデルでは情報伝達をおなじもののコピーと捉えてしまっているところに問題がある。

おなじもののコピーと類似物の再生産ではだいぶ意味が違います。これがべええさんのいうところの「アナログ情報をデジタル化したときに情報落ちが発生」ということにつながる。類似物の差異を捨象して、おなじである部分だけを採用するのですから。しかも、差異はノイズとして処理されてしまいます。とうぜん、これは工業化時代の大量生産の話にもつながってくる。

そういう情報それ自体に意味が内蔵されているというモデルではなく、昨日の「お客さんから逃げない」でも引用したように、情報の意味は物と人とのあいだの相互作用のプロセスのなかで生まれてくるというモデルを採用する必要があると思っています。

意味は、物の物理的、あるいは物質的な特性に内在するものではなく、人の心のなかにあり得るものでもない。テキストの意味が読みのプロセスの中で浮かび上がるのと同じように、人工物の意味は、それと相互作用、そして、それを通して他と相互作用するときに生じる。

ここでクリッペンドルフは、テキストの意味と人工物の意味を「おなじよう」なものとして捉えていますが、まさにテキスト情報とそれ以外の人間が知覚できるさまざまな情報はおなじように、そもそも読むことができ、意味を知覚することができるものなんですね。ところが、デジタル情報というのは、そういう本来、人間にとっては等価であるテキスト情報とそれ以外の情報を異なるものとして扱ってしまっている。その違いの大きな点は、先にもあげたように人間の身体性、認知能力と深くからんだ、場・過程・作法の3点を重視するかしないかではないかと思っています。

このあたりを見直して、情報デザイン、いや、人間中心のデザインというものを考え直していくべきだろうと思っています。

とにかく、いま僕がおすすめするのは下記2冊を同時に編集的に読むことです。

 

そして、できれば次の6冊も読んでみると、情報と人間の関係についての見方が変わると思います。


  
  

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この記事へのコメント

  • のぶし

    ブログ拝見しました。
    大変勉強になります。

    本として現実に本棚にあるのが大切という点は実感します。本と本の関係や購入した時の状況といった情報も含め血肉となるのかもしれませんね。

    2009年04月24日 01:43
  • tDG

    |しかるべき場、しかるべき過程を経験できない
    |ので、知のプロセス、思考のプロセスが身体的
    |にはたらく余地がなくなってしまっています。
    |そうしたインターフェイスを前にしたら、ピン
    |ポイントで目的の情報にたどりつくしかありま
    |せん。ただ、ピンポイントであるということは、
    |それ以外の情報を欠落させてしまうということ
    |にほかなりません。

    Kikiというブラウザがあります。これはホームページを辿った形跡が残り、保存できるものです。アクセシビリティのため完全な形跡ではありませんが。今のブラウザではこれが限界かと。
    http://www.din.or.jp/~blmzf/

    これも僕(ry

    考えて見ます。
    2009年04月24日 12:08

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