お客さんから逃げない

僕自身もときどき、そういう言い方をしてしまいますが、ユーザーのことをリテラシーが高いとか低いとかいうのは正しい表現ではないと思います。

PCのリテラシーが高いとか、インターネットリテラシーが低いとかいいますが、それは単に別のリテラシーをもった人びとが存在するというだけで高い/低いという優劣の問題ではありません。PCはある人にとっては意味のある道具だとしても、別の人にとっては意味のない物であるかもしれませんし、後者にとってはそれを使うこと自体に意味がないのだからリテラシーも何もそもそも存在しません。

物の意味は、それを用いる人自身の感覚と実際の使用に結びついたものです。物そのものに意味があるのでも、個々人のなかにあらかじめ意味体系があるのでもない。

物と人が出会い、実際にそれが使用されたときに意味が生まれる
ですから使用されていないのだとしたら、そこにはまだ、その人にとっての意味は存在しないのです。

人工物の意味

クラウス・クリッペンドルフは『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』のなかで、それをヴィトゲンシュタインの言語ゲームや、ギブソンのアフォーダンス理論、ユクスキュルの環世界などとの関係のなかでみています。

人は、物の物理的な質ではなく、
人に対するその物の意味に基づいて、理解や行動をする。


かつ、その意味というのは、人と物とのあいだに相互作用的に存在するのです。

読書というのは、読む前に何かが始まっていると思ったほうがいい。それを読書をするときだけを読書とみなしているのが、とんでもないまちがいです。
松岡正剛『多読術』

と、松岡正剛さんが『多読術』のなかで読書について述べていますが、これは単に読書に関してだけではありません。物を使用するという場合でも同じです。

物の使用というのは、使用する前に何かが始まっていると思ったほうがいい。それを使用するときだけを物を使用しているのだとみなしているのが、とんでもないまちがいなのです。
使用する前にはまだ意味が生まれていません。ただ、使用の瞬間に突然、何もないところから意味が生まれるというのでもない。使用する時点で人は自分が過去に利用してきた別の人工物と比較しながら、新しい人工物の意味を推測します。それが使用のスタートであり、物の意味のはじまりです。

意味を押しつけない

PCの意味=価値は、PCそれ自体にあるのでもなく、人間のなかにあらかじめあるものでもありません。それは人びとの日常生活や歩んできた人生の歴史のコンテキストのなかで、人とPCが出会い、使用される/されないなかではじめて決まってくるものです。

意味は、物の物理的、あるいは物質的な特性に内在するものではなく、人の心のなかにあり得るものでもない。テキストの意味が読みのプロセスの中で浮かび上がるのと同じように、人工物の意味は、それと相互作用、そして、それを通して他と相互作用するときに生じる。

それゆえ、サービス提供者、企画者、デザイナー、開発者が自分たちで勝手にPCの意味=価値を決めて、それを無理やりユーザーに押しつけて、その意味=価値を理解し享受できるかどうかでリテラシーの高さ/低さを決めつけるのは傲慢以外の何ものでもありません。
と、同時に、そうした決め付けはPCのもつ意味=価値を自分たち自ら制限してしまっているということでもあるのです。

もちろん、ここではPCを例にあげましたが、それはデザインされたあらゆる人工物にいえることです。

デザインは本来、専門のデザイナーを必要としない

クリッペンドルフは「すべてのステークホルダーは、彼らの生活のまさしく事実と、彼ら自身のことを主張することにより、彼ら自身の生活の専門家である」といいます。人びとにはそれぞれの生活があり、それぞれの生活に対応した意味世界があるのです。
また、「デザインは物事を理解し、それを意味あるものにし、それらとともに心地よく過ごし、それらを生活の一部するための方法である」というとき、デザインそのものがデザイナーというデザインの専門家に限定された仕事ではなく、あらゆる人に与えられた自身を取り巻く物事の意味を知り、それを改善する活動であるということがわかります。

ところが、工業化以降、デザインという仕事はあたかも専門のデザイナーを必要とする仕事であるかのような誤解がはびこりました。

デザイナーには、自分たちのことを、いわゆるユーザーの代弁者だと考えている人がいる。(中略)あたかも、ユーザーは自分たち自身について意見がなく、自分たちによいことを理解するには、デザイナーが必要であるというようなものである。

ユーザーに意見がないのではありません。
単に意見を聞きたいと思っているデザイナーが思っているような意見はユーザーはもたないというだけだし、デザイナーにわかることばでユーザーは意見を口にしないだけです。ようするに、それは単にデザイナーの側がユーザーの意見を理解する能力に欠けているだけなのです。
実際には意見を聞くのではなく、実際の生活の現場でエスノグラフィー的な観察を行い、人びとの生活のなかの意味体系を理解することが必要です。

自分たちの意味体系で考えるのではなく、相手の意味体系で思考する

それにもかかわらず、デザインする側は自分たちの理解力のなさを棚上げして、人びとの生活に入り込んで徹底的に人びとが世界をどう認識し、何に意味を感じているのかを知ろうともしません。ただ単に自分たちの理解できることばで話し、自分たちにとって意味をもつもののものさしでリテラシーが高いだの低いだのと決めつけます。結局は実際の人びとの暮らしから逃げて、オフィスのなかの論理ですべてを片付けてしまいます

それでいて、ユーザーが自分たちの意図したとおりに物を使えないなんていうのだからどうかしてます。そもそも自分たちがユーザーが意図するであろう事柄を理解し、それに基づいてデザインしていないのだから、結果ははじめからわかっているというのにです。

デザイナーが、自分たちのプロジェクトに、ステークホルダーを参加させ、反対者を支持者に変え、一致しない視点を協議し、異なった専門家の知識を利用し、人工物の開発を先に進めるために、ステークホルダーを信頼する必要がある。もしそれができなければ、単純に失敗する。

デザインする側は自分たちの理解によって人工物をデザインすればよいのではないのです。実際にターゲットとなる人びとが生活の場で行っている理解の仕方を二次的に理解する―相手の立場になる―ことで、人工物の意味をデザインすることが本来のデザインのアプローチの仕方です。
それには、上の引用にもあるとおり、ステークホルダーの参加、ステークホルダーへの信頼、異なる知識者・意味の体系ももつ人たちのもつ資源の活用ができるよう、自らの仕事の仕方を変えなくてはいけないはずです。しかし残念ながら実際には、そういうことから逃げて「自分たちができること」なんていう何の役にも立たない防壁=言い訳をつかってオフィスから一歩もでない人が多かったりします。

それでいて、自分たちの勝手な意味体系のなかで、人びとのことをリテラシーが高いだの低いだのいうのですから、内弁慶もいいところです。

人間中心のデザインは二次的理解に基礎づけられるべき

もちろん、顧客の要望をなんでもかんでも聞いて、自分たちのできないことでもどんどんやれなんてことをいってるわけではありません。とうぜん、ビジネスドメインというものがありますから、ビジネスとしてやらないと決めたことはやる必要がないし、その範囲をこえた要望を口にする人はそもそも顧客として考える必要がないと思います。

ただ、その人たちも顧客として捉えたなら、「自分たちがやれること」なんていう言い訳で、相手の意味体系の理解という作業から逃げるのはもってのほかです。

誰か他の人の理解を理解することは、理解の理解であり、再帰的に他の人を自分の理解に埋め込む理解である。たとえ、こららの理解が一致せず、お互いに相反し、あるいは、誰かに間違っているとか、あきれるほど非倫理的だとか思われるようなときであっても、この理解の再帰的な理解は、二次的理解である。人間中心のデザインは、基本的には、他の人のためのデザインであるため、それは、二次的理解に基礎づけられるべきである。

自分が必要だと思うものなら誰でもデザインできる(作れなくても企画はできる)。それなら専門のデザイナーはいりません。他人のためにデザインができるところに職能としてのデザイナーの価値があるはずです。だからこそ、他人の理解の理解である二次的理解が必要です。

お客さんから逃げない

ところが、実際にはデザイナーが他人のためを装いながら自分の理屈でデザインしてしまっているところに問題があると思います。結局はお客さんの理解のなかに入ること、お客さんの生活のコミュニティに入ることを拒み、お客さんから逃げているのです。

お客さんから逃げない。そこを意識できているか?
「自分たちができること」から考えて技術の側から何かを生み出すのではなく、「相手は何を欲しているか」から考えはじめ、「相手はどういう意味体系のなかで生きているのか」という相手の理解の仕方を理解したうえでデザインすることが大事です。

具体的には、次のようなアクション、ワークスタイルが必要になるでしょう。

  • 人びとの暮らしの現場で人びとの生活を理解するためのフィールドワーク、エスノグラフィー的な観察調査を行う
  • 調査結果から暮らしの全体像を理解するためのワークモデル分析、KJ法による分析を実施し、問題の構造の全体像を理解する
  • 人びとの暮らしの文脈のなかの問題点を解決するためのコンセプトをペルソナやシナリオを使って想像し表現する
  • シナリオから要件を抽出したうえで、必要な要素への変換を行い、それを人びとの意味体系のなかで適切な意味をなすよう構造化・関係性の定義を行う
  • 構造化した要素を視覚化・具体化するためにプロトタイピングを行い、ユーザーテスト法で実際のユーザーを参加させながらデザイン案をブラッシュアップする
  • 上記のプロセスを、専門分野の異なるメンバーによるグループワークでさまざまな視点におけるリソースを活用して問題解決を行う

こうした仕事の仕方で実際の企画・設計・開発を行っていくことがお客さんから逃げない、お客さんが生きる生活のコミュニティから逃げないということではないかと思います。

  

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