2009年04月16日

多読術/松岡正剛

これはおもしろかった。すごくおもしろかった。
あとで詳しく書きますが「本はノートである」ですよ。服をコーディネートするように本もコーディネートするですよ。これはおもしろい。

『多読術』というタイトルですが、これは多読に関する本ではないと思います。
それどころか、読書に関する本として読む必要さえないと思います。

何か未知のものに触れるときの方法のひとつだという風にも読める。僕はそういう風に読みました。

読書は「わからないから読む」。それに尽きます。
本は「わかったつもり」で読まないほうがゼッタイにいい。
松岡正剛『多読術』

読書は旅のようなもので、「無知から未知への旅」と松岡さんはいいます。
無知からというのは当然として、その先にあるのが単なる知ではなく、未知であるところがいい。

僕も「デザインする人に必要な能力は?」で「知識があるから疑問をもつことができるのです。知識はわかるために必要なのではなく、わからないことを発見するために必要なのです」と書きましたが、知というのは未知へと向かっていくのが本当だと思います。「わかったつもり」になると、それが止まる。未知への旅を続けるのが不安だから、つい適当な場所で安住してしまう。

でも、そんな素振りは松岡さんからはまったく見られない。読んでいて気持よくなる一冊です。

読書はそもそもリスクを伴うもの

なので、はじめから何かをわかろうと期待しすぎるのはよくない。よく本を読んで「むずかしい」とか「よくわからなかった」という人がいますが、それでいいんだと思います。読めば、常に何かがわかったり、すぐに何かの役に立つと期待するのが、そもそもおかしいんです。

松岡さんもこういっている。

「参った」とか「空振り三振」するのも、とても大事なことです。わかったふりをして読むよりも、完封されたり脱帽したりするのが、まわりまわって読書力をつけていくことになる。
松岡正剛『多読術』

「参った」り、「空振り三振」したりするから、技術は身に付くんじゃないでしょうか? 三振を繰り返すことで、どうしたら三振してしまうかがだんだんとわかってくる。それがわかれば三振する方法ではない方法で打席に向かうことで、ヒットやホームランが生まれるかもしれない。基本はトライアンドエラーです。
でも、野球も本も相手があってのものだから、ピッチャーや著者が変われば、別の方法でもまた三振するかもしれない。松岡さんは読書でも三割打てれば十分だといっています。僕もそう思う。それがおもしろいのだと思います。

読んだ本が「当たり」とはかぎらないし、かなり「はずれ」もあるということです。さきほども言ったように「三振」を喫することもあるということが基本です。しかし、そこが読書の出発ですから、何かを得るためだけに読もうと思ったって、それはダメだということです。そういうものじゃない。
松岡正剛『多読術』

はずれや三振を嫌いすぎではないでしょうか? そんなに失敗はいや?
はずれや三振くらいなら、まだいいほうかもしれないのです。

読書はそもそもリスクを伴うものなんです。それが読書です。ですから、本を読めばその本が自分を応援してくれると思いすぎないことです。背信もする。裏切りもする。負担を負わせもする。それが読書です。だから、おもしろい。
松岡正剛『多読術』

これ、生きていればとうぜんのことですよね。何かを得ようとして未知のものにチャレンジしたら、背信、裏切り、不必要な負担に出会ってしまうというのは不思議なことじゃない。なんでもかんでも計算どおりにいくわけではないし、だから、おもしろい。
読書でも、いっしょだと思います。

リスクを厭い、ああしたらこうなるというのを期待しすぎるから本を読めない。未知のものに対して好奇心を抱けないのではないのでしょうか?

本はノートである

僕も本を読むときはそうなんですが、松岡さんも本を読むときは本にどんどんマーキングするそうです。欄外に書きこみもする。
僕は下線と書き込みくらいですが、松岡さんはさらにいろんな記号を書きいれているといいます。

そして、こんな風にいう。

ノートをとるのが好きな人とか、パワポが好きな人には、ゼッタイに向いている。というのも、これは「本をノートとみなす」ということだからです。しかもそのノートやパワポは真っ白のままではなく、すでに書きこみがしてあるノートや画面なのです。それを読みながら編集する、リデザインする。
松岡正剛『多読術』

なるほど。「本はノート」、確かに。
しかも、白紙のノートより書き込みはしやすい。

松岡さんは下線を引いたり、書きこみした箇所をあとで引用ノートや用語集など、さまざまな記録に残しているそうです。僕がブログで引用しながら、自分の記事の形で編集してるのと基本はいっしょです。1からネタを探すより、本を読んだりしてインスパイアされた事柄を記事にするほうが発想はわきやすい。それは普段の出来事から感じたことを記事にするのと変わりません。

つまり、本にマーキングするってのは、ネットでニュース記事や誰かのブログのエントリーを読んで、はてブにコメントするのと地続きにあることなんですね(ただし、個別のコメントで反射的に終わらせてるのであれば、大して意味はない。あとでそれを編集して別の作品に編みかけられるかどうかが肝心なところ)。

しかも、引用ノートにしたり用語集にしたりというのは、複数の本に対して行い、本と本の境界を越えて再編集するんですね。はじめに書いた服をコーディネートするように、本をコーディネートするというのもこれに関係してる。複数同時に読んだり、あとで複数の本からの引用をひとつの記事にまとめたりするのって、確かにコーディネート感覚があります。
結局、これ、何をしてるかというと本の世界をフィールドワークして気になることを集め、あとでKJ法のように情報と情報をつなぎあわせて、そこにアブダクティブな発想の創発が生まれる機会をつくってるんですね。僕もこれはちょっと真似してみようと思いました。

読書は編集である

結局、本を読むというのは、そこに書いてあることをそのまま読むのではないわけです。むしろ、誰かと話すのとおんなじで、相互作用的にコミュニケーションをしているわけです。

そして、インターネットが単なる記号の通信ではないのと同様で、読書も記号の通信行為ではない。

私たちは知覚活動やコミュニケーションにおいて、外側の刺激に応じてそれと等価の情報を別の記号に変換しているのではない、ということです。(中略)コミュニケーションとは「メッセージ記号の通信行為」ではなくて、「意味の交換」のためにおこなわれている編集行為だということです。
松岡正剛『多読術』

そう。それは意味の交換行為です。交換というのは、それが相互作用だからです。

本を読むというのは、書き手からの一方通行ではなく、常に読書とのインタラクションです。読みながら僕らは書いてあることを編集しながら意味を理解しようとしている。だから、本は誰が読んでもおなじわけではない。読み手によって交換される意味は変わります。
それなのに、本の質を著者の力量だけに問うのはそもそもおかしいんですね。

意味の市場

読者というのは単なる受け手ではないのです。

そう理解しているかどうかで読書の意味はだいぶ違ってくる。
いや、読書だけじゃなくて、世界をみる目が違ってくるはずです。

自分に世界がそう見えているのは、世界がそうだからというだけでなく、世界を読みとる読者としての自分がそう読んでいるからです。世界がいま見えているように理解できるのは、単に自分がそんな風に「わかったつもり」になっているだけかもしれない。

それでもなお、読書というのはやはり自分がどう読むかですべてが決まるわけではありません。
そこにはあらかじめ自分がどう読むかを決める「意味の市場」がある。その「意味の市場」にアフォードされながら、個々人は本からその人自身の解釈を得ていく。
ちょうど型に対する形のように。師匠の教えに対する弟子の学びのように。

一冊の本に出会って読書するということは、大きな歴史が続行してきてくれた「意味の市場」でそのような体験を再現し、再生し、また創造していくということなんですね。本はそのためのパッケージ・メディアです。
松岡正剛『多読術』

本を読むというのは、単に著者と読書という関係において読むことではないと思います。著者もまた読者であり、長い歴史のなかで育まれた「意味の市場」に触れているのだから。
そこではさまざまな形がマザータイプである型を再生産していく、編集、リデザインしていくことで生みだされてくるのですから。

これを単に松岡正剛という人が編集者だからという風に理解して、わかった気になってはダメです。
なぜなら、松岡さんだけが編集者なのではなく、人間という生き物がそもそも編集者なのですから。「編集」という用語にとらわれるのではなく、その用語で示されている、意味の市場と、書き手や読み手とのあいだに起こっている型から無数の形が再生産されていくダイナミクスこそを感じてほしいなと思います。

読む前に何かが始まっている

この意味の市場という考えが、実は先に「デザインの新しい基礎理論」というエントリーで紹介したクラウス・クリッペンドルフ『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』につながってくる。
クリッペンドルフが「意味」という場合、それは松岡さんも意味の市場の話をする際に参考にしているユクスキュル『生物から見た世界』のなかで提示した「抜き型」という概念あるいは環世界という考え方が根底にあります。ユクスキュルのいう環世界は知覚世界と作用世界が共同でつくりあげる半自然=半人工の世界像です。ユクスキュルは、動物の知覚も、人間の知覚も、世界が押し付けて型抜きしたとして見るべきではないかと考えました。ギブソンのアフォーダンスに近いですね。

クリッペンドルフのいう人間中心のデザインは、まさに意味という概念をもつ人間の環世界におけるデザインということを想定したもので、いわゆる人間中心設計―ユーザビリティ的な発想とは違っている。クリッペンドルフはそうした意味というところから、人工物の意味を決める活動としてのデザインというものを捉えている。そして、意味を中心に捉えているかぎりにおいて、その話の根底には、松岡さんの編集工学的な考え方があると捉えていいと思います。こういうことを考えていくためにもユクスキュルの抜き型というのは大事な概念ですね。

そうしたもろもろの意味を含めて、

読書というのは、読む前に何かが始まっていると思ったほうがいい。それを読書をするときだけを読書とみなしているのが、とんでもないまちがいです。
松岡正剛『多読術』

なのでしょう。

僕らは読書をはじめる前からすでに読書をしている。
だとすれば、多読かどうかは特に重要なことではありません。大きな歴史が続行してきてくれた「意味の市場」に触れながら、「無知から未知への旅」を続けられるかどうか? そちらのほうがより重要なことだと思います。



関連エントリー
posted by HIROKI tanahashi at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/117584217
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック