学問・職能領域のリデザイン

まぁ、いまさら書くまでもないわけですが、僕はデザインという仕事を、人びとの生活文化をつくるための包括的な仕事だと考えています。

なので、最終的につくるものによって、プロダクトデザインだとか、インターフェイスデザインだとか、グラフィックデザインだとかという風に領域を分けてしまうのではなく、向井周太郎さんが<デザインは「あるべき生活世界の形成である」という問題提起>のうえで基礎デザイン学という学問分野を創設したことなどにはとても共感しています。

私は、デザインは「あるべき生活世界の形成である」という問題提起をたえず繰り返してきました。(中略)デザインという行為は、基本的に、人間の生命や、生存の基盤と安全、日々の生活やくらし方、生き方や生きる方法、生きていくうえでの人々の関係やコミュニケーションや社会形成などにおよぶ、人の誕生から死までの生のプロセス全体と、生命の源泉としての自然環境や、生命あるものとの共生関係を包容する「あるべき生活世界の形成である」に広く深くかかわるものだといえます。

1998年に書かれた「基礎デザイン学会設立趣旨」をみると、この学問が視野にいれている領域が非常に広いことに気づきます。「基本的なデザイン専門科目のほかに、哲学、文化人類学、社会学、心理学、論理学などリベラルアーツとの積極的な連携を推進する」だけでなく、「記号論、デザイン史、技術史、インフォメーション美学、サイバネティックス、形態学、色彩学、視覚方法論、表示方法論、エルゴノミィックス、メカニズム論、映像工学、トポロジー、言語学、音声学、コミュニケーション論、文体論、経済学特論、社会学特論など」の連関しながら「あるべき生活世界の形成」としてのデザインを探求していけるようにしたカリキュラムが基礎デザイン学なんですね。

目的大学

そんなわけで、イソムラさんのこの考え方にもすごく共感しました。

デザイン系学生に将来何をやりたいか?と聞くと、プロダクトデザイン、インターフェースデザイン、グラフィックデザインなどデザイン職能種が出てくる。(中略)私の新人の頃も同じ思考だったが、考えてみればデザインをする行為が目的化しているのではないか。
本来であれば、”○○のデザインをしてみたい”ではなく、”○○な社会にしたい”という問題意識があって、その手段としての職業にデザインが位置づけられた方が、長い人生をみればより充足感を得られるように思う。

イソムラさんはこう書いた上で、職能訓練校と化した感のあるいまの大学とは違う、自分が関わる領域=目的に応じて、工学、科学、デザイン、法学、文学などの複数専攻も可能な"目的大学"なるものを提案しています。

これは僕も賛成。

区別は普遍的でもなければ自動的でもなくデザインである

なぜ賛成かというと、ひとつには、僕自身、これまでもひとり目的大学状態だったからというのがまずあります。

僕自身、あんまり何をつくるかということにこだわりはないし、実際、デザインの上流工程に関わっていると、何をつくるか、どうつくるか以前に、なぜつくるのかという問題意識の明確化に迫られるからです。
そして、そういうことに対応できるようにと考えると、既存の学問や職能の領域にこだわった学習や好奇心をもっていても何の役にも立たないし、さらにいえば仕事と生活の区別をつけることさえ無意味だとわかってくる。もちろん学問と仕事の区別も無意味そのもので、この時代に生き抜こうと思えば、歴史や民俗学や民藝品や心理学や料理や散歩や白川漢字学や旅行やメディア論や盆栽や脳科学やファッションやマンガや雑誌や量子力学やイコノロジーや洗濯などから学ばないと、デザインの仕事なんてやってけないと思って、それなりに学習しています。

バーバラ・スタフォード的にいえば、

ビジネスの世界で独立企業が次々潰れ、簡単な合併の経済で動くひと握りのグローバルな巨大連合企業ができていったのを考えてみればよい。多様な分野間の架橋、それこそまさしくデザインの問題なのであって、混成のイデオロギーが自動的にもたらした結果であったり、ましてや金がないという悲しい現実の行きつくところというのであってはならない。

となる。
そう。区別するにしても多様なものとしていっしょくたにするにしても、それはデザインの問題であって、問題に応じて意図的に分類し構造化すべきです。決して、それらは普遍的でもなければ自動的でもなく、あくまでデザイン=設計であり、あるべき姿をどう描き、具現化するかという問題だということを忘れてはいけないと思います。

いまのところはとりあえず、僕自身のなかでのみ、いったん既存の学問領域や職能などを分解して、自分専用の学問・職能マップみたいなものを再構成している最中です。それがひとり"問題大学"の試みというわけ。

近代化以降を再設計(リデザイン)する

もともと職場と生活の場を分けるなんて考えもしょせんは20世紀のはじめに科学的管理法の父と呼ばれたフレデリック・テイラーによって生産性の向上を目的とした科学的管理法・テイラーシステムが職場と生活の場を分けたから。
でも、それって筋力的生産にフォーカスした場合の生産の効率化のための手法であって、デザインという「あるべき生活世界の形成」が目標とされるような領域横断的な知が必要とされる場面ではむしろ足枷となる。はっきりいって就業時間なんていい加減なものさしで、職場と生活の場を区分されてしまったら、本来統合された感覚によって身体的に生きる人間の包括的に物事を考える力をフルに活用してやらなきゃならないデザインの仕事なんてできるわけないんですね。そもそもデザインという仕事は、ビジネスという領域のなかだけで行っていればよいという類いの仕事ですらないわけですし。

田中優子さんが『江戸の恋―「粋」と「艶気」に生きる』で書いているように、江戸時代には家族は生産の単位であって、結婚は恋愛の先にあるものではなく現代の就職と変わらないものだったのだし、江戸文化そのものが連という名のネットワークにおいてグループワークによって生じているのだとしたら、むしろ近代化以降の職場と家庭や各専門領域が分断された形の生産形式というのは、なにも普遍的なものではなく機械化時代の遺物だと考えたほうがよいだろうと思います。

このあたりの反省がないまま、いまだに近代化の際にデザインされた職能分化や学問領域そのままに、組織においても、学問の場においても、教育や仕事のしくみが設計されていることに問題があるのではないかというのが僕がここしばらく抱いている問題意識(cf.「人的資源の生態学的問題」「モダンデザインの歴史をざっと概観する1」など)。もう、そろそろ本格的に仕事のしくみにしても学問のしくみにしても近代以降のリデザインをはじめてもよいのではないかと思うのです。もちろん、それはワークスタイルヤライフスタイルのリデザインもともなう大がかりな仕事になるはずです。

と、まぁ、こういったもろもろの意味でイソムラさんの提案する"目的大学"には賛成なんです。
イソムラさん同様、僕も「目的大学」やってみたいみたい。

   

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