Web2.0時代の複製と著作権

ブログやソーシャルネットワークなどCGM(コンシューマ・ジェネレイテッド・メディア)の台頭は、いまやネット上に大量の複製情報を日々生み出し続けている。ネットに掲示されたニュースは瞬く間に個人のブログなどで複製され、個人的な感想とともに拡散していく。
もちろん、こうした複製の問題は何も最近になって表面化したわけではない。デジタル情報がインターネット上に置かれた時点からそれはすでに問題としてあった。ただ、CGMの台頭でその速度と量が過去とは比較にならないほど劇的に増したというだけの話である。

とうぜん、こうなってくるとネット上での著作権の問題が真剣に問われることになるであろう。もちろん、著作権は著作者個々の経済的な権利を守るために必要だ。これまでの経済システムが前提としていたのは、著作できる人とそうでない人の間の差異そのものを価値とする考え方で、それはすなわち分業だ。
「最初の分業は、子供を生むための男女の分業である」(『ドイツ・イデオロギー』)と言ったのはマルクスだったが、まさにいま起きている消費者主導のメディアの形成は、マルクス主義において搾取されていたものとされる労働者がその力の一部を取り戻しはじめたと言ってもいいのかもしれない。

消費者が発言する力を得るという議論と他人の著作権を侵害することの是非を問う議論は明らかに別物だ。しかし、実際にはそれほど「明らか」ではない。何しろ、ネット上の著作権の定義自体がいまや非常にあいまいとなっているからだ。
その1つの例が多くのサイトに記載されている「Copyright ©2006 ○○○ All Rights Reserved.」といった表記そのものの矛盾だ。そういう記載のあるサイトが平気でトラックバックを許可したり、RSSを発信したりしている。すべての権利が自分達にあると主張しておきながら、複製を許可するトラックバックやRSS配信を行なっているのだ。それだけではない。そうしたWeb2.0的なツールに限ったことではなく、明らかに自分たちの情報を複製掲載する検索エンジンに対してSEOを行っている時点ですでに矛盾があるのだ。

便器を「泉」という作品だと主張してスキャンダルになる前、デュシャンはきわめて器用な「伝統的」芸術家だった。モネ風の絵でも、ピカソ風の絵でも、テクニックに長けていたデュシャンは自由に描くことができたのである。すでに存在しているスタイルで絵を描くのは「レディ・メード」である。どれほどフェルメールの絵が素晴らしいとは言っても、フェルメール風の絵を現代に描くのは「レディ・メード」にすぎない。その辺の既製品を拾ってきてサインするのと変わらない。十分なテクニックを持った者だけが主張できる境地に、デュシャンは立っていた。
茂木健一郎『脳と創造性』より

そもそもオリジナルと複製の違いは非常にあいまいなものでしかない。その区別は決して自明なものではなく、どう区別を行うのかという定義の問題でしかない。男女の分業が「子供を産むため」の分業であるとその目的の明確化が行われるように、区別はどのような経済的な目的で行われるのかを定義しなくてはいけない。当然、そのためにはこれからの経済システムがどう変化していくかをきちんと考える必要があるだろう。そうでなければ古い経済システムで生計を得ていた人々と新しく生まれつつある経済システムで生計を立てようとする人々との間で不毛な議論が続くだけだろう。
クリエイティブ・コモンズなどの活動がより活発化し、普及していくことが望まれる。





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