ゆがめられた日本史イメージを問い直すという姿勢は網野史学に通底するテーマですが、この本では「同じ現代の日本人である沖縄人、アイヌ人に対する屈折した差別、さらに朝鮮人に対する長年のいわれのない差別は、間違いなく単一の日本民族、古代以来の単一な日本国家を前提とする歴史観にその根拠をもっている」という通説化した日本民族観、日本史像を再検討するため、宮本さんが取り上げた古代以来、歴史的に近い時代までみられた東日本と西日本の差異を主題として取り上げています。
東と西の違い
まず、東と西の違いを語るこの一冊は、現在にも残ることばの違いに着目します。東京式のアクセントと京都式のアクセントの境、「見ろ」と「見よ・見い」や「ない(行かない)と「ん(行かん)」、「く(白く、広く)」と「う(白う、広う)」などの語彙の違いが長野南部、静岡・愛知あたりで線が引かれることをみます。また、このことばが相違するラインで分かれた東と西では、昭和40年代くらいまでは互いに婚姻関係もほとんどなかった(東の人は東の人同士、西の人は西の人同士で結婚していた)という驚くべきデータも示されます。
こうした東西の違いは、宮本常一さんが『日本文化の形成』で描いていたように縄文時代にまで遡れます。石器や土器の分布をみてもその違いがみられ、東日本のほうが圧倒的に精緻かつ華麗複雑な文様をもった土器がつくられているといいます。土器の発達は宮本さんが書いていたように「煮ることによって食用にすることのできる動物や植物が多く」あることを意味します。そうしたことも踏まえ、網野さんはこう考えます。
そうじて、縄文時代を通じて、西日本の遺跡は貧弱であり、東日本が圧倒的に複雑・多様な文化を生み出したことは間違いない事実で、狩猟・漁撈・採集文化における東日本の優位は疑いないといえよう。網野善彦『東と西の語る日本の歴史』
一般に歴史の上では文化はつねに西高東低のものと考えられていますが、すくなくとも縄文時代にあっては明らかに東国の優位があり、それが逆転するのは、水稲耕作を基礎とし、鉄器・青銅器などの金属器製作とも結びついた弥生文化が北九州に流入するに及んで以降のことであるとしています。
馬と船、弓と飛礫
こうして縄文時代において優位にたっていた東国と弥生文化の流入によってその立場を逆転することとなる西国はその後は異質な文化として対立の様相を示すようになります。いうまでもなく、それは5世紀後半から6世紀にかけて全国支配を強化しようとする大和の勢力の動きによるものです。大和の勢力は各地の動乱に介入しながら、その勢力を全国に展開しようとします。東国に対しても武蔵国の叛乱に介入するなど、しだいにその力のおよぶ範囲を広げつつ、天武天皇のころには東海道、東山道の諸国をその影響力を広めることになりました。
それはいまのように日本がひとつになっていく過程というほどのものではなく、東国ではなお西国に対する独立を主張する傾向は残ったといいます。
ただ、西国がさらに東北の蝦夷に対してもその勢力を伸ばそうとした際に、その制圧のための武力として東国の力を借りたのでした。
弓矢、それはいうまでもなく縄文時代以来の東国に、世界を類をみないといわれるほどの発展をとげた狩猟の技術を背景とし、東国人のもっとも得意とするところであった。
それとともに朝鮮半島からもたらされた馬は、東国の原野において、もっともよいその生息地の一つを見いだしたのである。網野善彦『東と西の語る日本の歴史』
8世紀後半から9世紀にかけて東北=蝦夷に対する軍事力として東国人が重んじられたのは、この弓馬の兵力をもったからであり、それが後に東国での武士権力の台頭にまでつながっていきます。
一方、東の馬に対して、西は船をあやつる力に長けていました。大阪湾から紀伊水道に面する沿岸に広くその勢力を張り、さらに瀬戸内海の要地に同族をもった紀氏をはじめ、水軍としての軍事力をもっていたそうです。
中世にいたるまで、大阪湾、紀伊水道、瀬戸内海は海民のもっとも活発に活動した水域であるが、おそらくは弥生時代以降、古代にいたる間に、海と船はすでに西国の重要な特質の一つといってもよいほどになっていたのである。網野善彦『東と西の語る日本の歴史』
これも宮本さんが『日本文化の形成』で描いた古代の縄文人の狩猟技術や稲作をもたらした海洋民としての弥生人たちの船舶技術、航海技術がそのまま東と西に分かれて受け継がれたようにみえます。
イエ的社会とムラ的社会
日本においては稲作が主だと一般には思われていますが、実際、東国では稲作に対する抵抗があったといいます。「大きくみれば、東国は畠作優位、西国は水田優位であったということができる」そうです。年貢も東国では繊維製品が多く、絹や糸、白布、布、綿などが多く、西国で米が圧倒的なのとは大きな違いがみられるといいます。
こうした東国と西国の違いは、その社会における人間の関係のあり方の違いにも見受けられました。東国はイエ的社会、西国はムラ的社会だったといいます。
いわば東国の社会は、領主のイエ支配を中心に、縦に百姓たちが領主と結びついた、家父長的な性格の強い主従関係が基礎となっているのに対し、西国の場合は百姓の小さなイエが横に連合したムラ的な結合が発達している。それがしばしば、荘・保の神社の宮座の組織に支えられているので、「座的結合」ともいわれるが、こうした百姓の結びつきが西国社会の基礎をなしていたのである。網野善彦『東と西の語る日本の歴史』
また、こうした東国と西国の違いは、百姓身分だけなく、職人の世界にも見出せたそうで、西国では職人は職能ごとに座的な集団をなし、天皇や神仏に結びついていましたが、東国にはほとんどそうした組織がほとんどみられず、鎌倉に材木座があったりする程度だといいます。
こうした縄文時代から存在した東国と西国の差異、対立は、室町期を経るなかでじょじょに見えにくくなります。そして、いまではその差異そのものを僕らはすっかり知らずにいます。
網野さんは『日本の歴史をよみなおす』のなかで「現在、進行しつつある変化は、江戸時代から明治・大正、それから私どもが若かった戦後のある時期ぐらいまでは、なんの不思議もなく普通の常識であったことが、ほとんど通用しなくなった、という点でかなり決定的な意味をもっています」といっています。
僕らは自分たちが生きるいまの時代の社会を当たり前だと思って生きていますが、実はそれはただの特殊でしかない。人間の考え方も価値観も暮らしぶりも行動もすべて特殊なものでしかないことに気づいているかどうかは非常に大切なことであると僕は思っています。何より自分たちが特殊な状態にあることを意識することは、その外の世界を意識させ視野を広めてくれます。
発想はいつでも外からくる。外を意識できない狭い視点ではでてくる発想も陳腐なものにしかならないのだから。
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