
- 稽古の「稽」は「考える」という意味です。
- 「古を考える」「昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」が、漢語「稽古」の原義だといわれます。
- これは常に新しい時代よりも古い時代のほうが優れていたと保守的な考えをもつ中国ならではの姿勢だと感じます。
稽古の喪失
ただ、常に古い時代のほうが優れているかはともかくとして、確実に過去のほうが優れていたこともあったはずで、それに学ばないのは単純にいって損じゃないかと思います。とにかく、自分たちの現在が過去と陸続きであるという感覚をもてない人が多いのかなと思います。自分たちがどう考え、どう生きるのかということがいかに過去の恩恵を得ているかということに無神経なまでに鈍感です。
茂木 いま、われわれが持っている道具とか方法というのも、結局、個々人がというより、われわれに至る生き物がずっと生きることを習慣化してきて、その中で蓄積されてきたものだと思います。ですから、今ここにあるものを、われわれは自分が所有しているかのように錯覚するけれども、それは所有というのではなく、単に受け継いでいるということなのですね。
この感覚がないから過去に興味をもたないし、過去の優れたものをどんどん忘れて、しまいには使わないものはいらないものだなどという自分勝手な理屈で、過去の智恵を廃棄していく。
日々の習慣のなかからの創発
多くの人が昔のことは自分とは関係ないと考えるのか、はたまた、中国の保守的思考とは逆に、極端な進歩的思考をもって常に新しい時代のほうが優れていると考えているのか、過去の智恵を学びとって、自分たちの思考活動・生活行動に取り入れていこうという姿勢が欠けているように感じます。まぁ、単純に勉強嫌い、稽古嫌いという風にとるのが自然ですが、そういう意味で現代人って体力が落ちてるんでしょうね。思考的な面でも感性的な面でも足腰が弱ってしまっている。
だから、「グループワーク」というエントリーで書いた、古代の神遊びから茶の湯や俳諧連歌にも通じる主客の遊びと現代のグループワークの成否が「異なるものをいかに招き、そこから創発を生むか」という点でつながっていることにも気づくこともないのでしょう。また、それを知ってもそのつながりの意味が理解できない。
いまほど性急に答えを求めることがなかった過去の人びとが何度も繰り返し習慣化するなかで方法そのものを創発してきたということの価値がわからないのではないかと思います。
松岡 千の単位で繰り返された習慣が臨界値に達して何かを創発することと、習慣もないのに便利になった道具を持っていることの格差が、これから、ますます開いていくだろうね。
まず、この創発がわからない。複数の異なるものがぶつかりあいを繰り返すことで創発が行ってくるということを、そういう体験ができる稽古・修練を日々行っていないから感覚としてわからないということがあるのだと思います。まさに稽古不足です。
日常から学習機会が失われている
便利な道具をもつことで、外部との接触を繰り返す習慣を現代は自分たちのまわりから追いやってしまっています。かつてなら手仕事を通じて、繰り返し物自体と接触するなかで身体で学んできた事柄を学ぶ機会を失っている。もし歴史が後に控えていなかったら、あの簡単に見える草履一つだって作るのに難儀するでありましょう。一枚の紙だとて、どうして作るか、途方にくれるでありましょう。吾々の言葉だとて、なくなってしまうでありましょう。これを想うと、どんなものも歴史的なつながりを有って、存在していることが分かります。吾々の生活はどうしても歴史と縁を切ることができません。
それがどういうわけか、いまの時代は生活が歴史と縁が切れた状態になってしまっている。
この手仕事はなにも民藝的な話だけでなく、洗濯物を手で洗うこと、部屋を箒やぞうきんで掃除すること、草花の手入れをすること、他人とメールやSNSやtwitterを通じてではなく面と向って話をすることなど、そういう身体を使った仕事が日常からどんどん失われているのも問題なのだろうと思います。
結局、それが「人間能力向上のための教育について」で書いたような日常の暮らしのなかでの学習機会の喪失、失われた学習機会を別の形で用意するための教育コストの増大にもつながっていくのですから。しかも、現実的には失われた学習機会を教育によって補うことはほぼ不可能に近い。
カンタンなものを求めすぎでは?
僕は過去に興味をもたないいまの傾向って、結局、人間に対する興味を失っている、自分自身を知ろうとする意欲に欠けているということにもつながっているように感じています。とにかく計算しづらい、読みづらく、簡単には答えを教えてくれない対象である人間だとか、自分自身だとかに関わらないようにしている傾向があるのではないでしょうか? 枠にはめないと理解できないから、近づくのを避けてるのかなって。
とにかく簡単でわかりやすいのがいいんでしょうか。その対象は自分自身にさえ及んでしまっています。自分探しみたいなものが流行る一方で、自分が外の世界から何を感じ、その感じた何かを自分のなかでどう扱っているのかということに目を向けることを避けているように思う。
人間をなにか機械のようなものとして捉えてしまうのか、そのインプットからアウトプットへの機構をブラックボックスにしたまま平気でいるのではないかと感じます。
稽古不足を幕は待たない
それで結局、どうなるかというと、- 自分自身のインプット~アウトプットの方法を身体的に理解できていないから、すぐに他人の要約、箇条書き的なまとめ、手順の書かれたマニュアルにたよってしまう。
- 「方法依存症」となる。
- 自分自身で外部のものを感じて自分なりに要約したり理解したり盗んだりということができないということになる。
- それですこしでもむずかしい物事に接すると逃げ出すか、思考停止をするしかない。
- むずかしいことにぶつかって、それを自分でなんとか理解できる形に自分のなかで変換してみせることに意味があるのに、そうではなく、元からかんたんなものを求めてしまう。
- なので、他人に対しても同じように考えてしまい、他人の経験や感覚というものを敬えなくなる。
- 他人との協働作業の価値も見いだせないし、実際やろうとしても他人に敬意をもって接したり、他人と呼吸をあわせて何かを生み出すということもできない。
これね、仕事をしていくには結構、問題だと思うんですよね。
だって、自分たち自身の活動のなかから何かを見出し、それを他人と共有しながら膨らまして、価値あるものを生みだしていくということがきわめてむずかしくなってしまうから。
もちろん、仕事でなくても、普通の日常生活の面でも問題になる面は多々あるでしょう。
何か新しい体験ができないかと探し回っている人びとは、実はあらゆる体験が常にはじめての体験であることを見落としています。
そう。稽古不足を幕は待ちません。恋はいつでも初舞台なのですから(from 「夢芝居
いつでも同じ毎日と思ってしまうのは、日々の暮らしから受けるフィードバックに対する感性が鈍っているからではないでしょうか。本当は同じような毎日でも常に昨日とは違う今日があるはずです。それに気づかないのは、自分の思考の殻にとじこもって、外からの刺激に対する敏感さをなくしてしまっているからだったり、外への働き掛けもそこからのフィードバックもないまま、日々をやリすごしてしまっていたりするところに原因があるのではないか、と。
日々の自分自身の行動からのフィードバックを積極的に使わないっていうのは結構大変なことだと思います。自分の知ってることの外に出るのを恐れて、そこから得られる新たな計算外のフィードバックから学びとっていくという姿勢がないというのは、かなりおそろしいことではないかと感じます。
日常の暮らしを未知のものにチャレンジする稽古の場にできない箱入り娘的生活を送っていると、どんどん身体も頭も働かなくなるのではないでしょうか。
面倒を嫌ってはいけない。面倒なことにこそ、学ぶチャンスは隠されているのだから。そうした日々の発見から学ぶことこそが本来のライフハックではないでしょうか。
道具と道具の身体化の関係
『脳と日本人』には、写真家の土門拳さんが若い頃の修行として、銀座にあった事務所のビルの屋上で「ライオン歯磨」の広告塔を被写体にして、「ラ」「イ」「オ」「ン」という風にパッ、パッとさまざまな角度からシャッターを押す練習をした話がでてきます。そうすることで「初めてカメラが指の中にやっと納まるようになった」そうです。松岡 道具と道具の身体化という関係は、土門の練習のようなものを抱えているはずなんですね。人間工学が悪いとは言いませんが、なにかまちがった感じがする。
結局、それは道具に対する態度として、道具を使うことで人間の側も変わり、その変化によって道具との関係も変わっていくという創発的な自体を道具のデザインを考える際に盛り込めていないということにもなると思います。
「手ずれ」とか、「使いこみ」とか、「なれ」とか、これがいかに器を美しくしたであろう。作りたての器は、まだ人の愛を受けておらぬ。また務めも果しておらぬ。それ故その姿はまだ充分に美しくない。
このへんは「型と形」でも書いたことですね。
コンテキストをキーとした使いやすさを追求する人間中心設計とは別の次元で、こう感じます。

こうしたデザインに関することのみならず、せめて自分たちが何を失ったのかを見つめ直す意味でも、古を稽えるための稽古が必要なんだと思います。
めんどくさいとか思わずに過去を学ぶことです。そうすることでしか、自分たちの弱った足腰を鍛えることなんてできないはずですから。
関連エントリー
この記事へのコメント