
当然ながら、ひとりで同じ成果が出せるなら、グループワークをする意味はありません。デザイン思考においてグループワークが重視されるのは、その方法を用いれば個人個人がひとりで仕事をする以上の成果が期待できるからにほかなりません。
まず、グループワークということを考える上では、このことを忘れてはいません。
では、どうすればグループワークによってひとりで仕事をする以上の成果を得ることが可能になるか?
あるいは、グループワークという方法はなぜそのような成果を出せるのか?
このグループワークという仕事の方法について、今日は考えてみようと思います。
なぜ仕事でのグループワークがうまくいかない場合があるのか
まず、グループワークについて考えるきっかけになったのはコレ。ショックを受けたというのは、実際に結果が重要なのはワークショップよりも仕事のほうなのに、うまくいかないとしたら、それはいったい何なんだろう?
藤井さんは、僕が「遊びに関するメモ。」というエントリーのなかで「ひとつの組織のなかで仕事として行うワークショップと、自由に応募してきた所属もバラバラの参加者がワークショップでのグループワークでの仕事の仕上がりが違」い、かつ後者のほうが仕上がりがよいと書いたことにひっかかったようで、「なぜ、ワークショップの仕上がりが違うのか?について、事実(体験)ベースで考えてみる」と「ワークショップ再考(コート、ルール、下準備、そして参加者)」というエントリーを続けて書いてらっしゃいます。
実際には「考えるきっかけ」というより、このエントリーを「書くきっかけ」なので、それゆえ、藤井さんが「ワークショップ」について考えているところが、僕の場合、もうすこしスコープを広げて「グループワーク」になっています。
そして、元々のエントリーで「「遊び」と複数の人びとが集まって行う仕事との関係性を感じている」と書いているとおり、藤井さんが「いったい何なんだろう?」と疑問に思ったことの答えも、僕は「遊び」というもののなかに見出しています。
それについて以下で書いてみようと思います。
グループワーク成功の条件
最初に僕がグループワーク成功の条件だと思っていることを示しておこうか、と。
そう。「発想」「能力」「意欲」という3つの要素がグループワークの場に結集してくれないことには成果は出ないと僕は考えてます。
意欲
簡単なところから説明していくと、意欲がなければ、成果が出ない。これは当然ですよね。仕事でやってるのに、意欲がないなんてことあるの?と思われるかもしれませんが、これは実際によくあることです。
原因は、
- ろくな説明もないままグループワークの場に参加させられたり、
- そもそもグループワークなんてめんどくさいと思っていたり、
- 協働作業をただの共同作業と勘違いしていたり、
と、いろいろです。
この点では、個人が自主的に参加してきたワークショップのほうが参加者の意欲が高いことのほうが多いんですね。
ほかにもグループワークを行う場所という要因もあります。
- 人通りが激しかったり作業スペースが狭すぎたりなど、なんとなく集中できない場所だったり、
- あまりに整然とした刺激のない空間だったり、
すると意欲がそがれるケースがあります。
あとは作業手順や必要な道具などの準備が足りないなんてケースも、メンバーの集中力が欠けて意欲がそがれてしまう一因です。
グループワークを行うメンバーに意欲をもって参加してもらえるよう、空間、メンバー選定、グループワークで何をやるかの共有、そして、作業手順や道具の準備などはあらかじめしっかり行ったうえでない意欲のある場にならないかなと思っています。
能力
次に、能力ですけど、これもわかりますよね。そもそもグループワークで行う作業ができる能力に欠けると成果がでないのは当たり前ですよね。ただ、作業能力そのものは、全員がダメだとあれですが、
- ある程度、グループのなかに作業に必要な能力をもった人がいれば、参加メンバー同士で補うことができます。
- 一人や二人、作業能力に欠ける人がいても問題ありません。
- 自分がちょっと他の人より能力に欠けるなと感じたら、アシスト役にまわればいいので。
- もちろん、そういう気が利かず、ぼーっとしてしまう人がいると、グループ全体の効率が落ちるのは「内省する力(第2回ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ1日目)」でも記したとおりです。
なので、グループワークで欠かせない能力って、コミュニケーション能力なんですね。
- 他人といっしょに作業をする能力。
- 俺が俺がというのではなく、
- 他人の意見も聞きつつ、
- 自分のアイデアを膨らませたり、
- それをあらためて他の人にも共有する力。
はじめて顔を合わせた人どうしが集まったワークショップの場ですと、はじめはここで戸惑うことはありますが、「横浜デジタルアーツ専門学校・Web科箱根合宿 リフレクション」でも書いたとおりで、知らない人とのコミュニケーションって、会話から入るより作業の共有から入った方が打ち解けやすいわけで、適切な作業が設定されたグループワークの場ならそれほど問題は生じません。
この点でも、決して仕事の場で顔見知りの人同士でグループワークをすることに利点があるわけではありません。
発想
最後に発想。これが一番の問題なんですね。僕は実はこの点にこそ、同じ会社内で仕事でやるグループワークがうまくいかない一番の要因があると思っています。皆さん、発想ってどこからやってくるかわかってますか?
それは外からやってくるんです。外から来たものを自分に招きいれたところに、ひらめきは生まれます。
予定調和的なところからは発想は生じず、発想には偶然の出会いが必要なんですね。もちろん、出会いなので外から来たものを受け止める感性が働かないと発想にはなりません。
ここがポイントです。発想を生むためには自分の領域の外から刺激が入ってくることが必要なんです。
グループワークがひとりでやる仕事とは違った成果をあげやすいのも、ここに理由があります。
- 他人といっしょに作業をするのですから、そこには自分が想定していなかった様々なことが起こります。
- その予定外の出来事に刺激を受け、普段と違った発想が生じることにグループワークの意味があります。
- そして、そうした普段とは異なる発想が複数人のあいだで次々に起こっていき、それが結びつくことで、いわゆる創発的な発想が生じてくる。
それがグループワークという仕事の方法なんですね。
さて、もうおわかりでしょうか? なぜ、同じ会社内でのグループワークがうまくいきにくいかという理由が。
そうなんです。
- 普段、いっしょに仕事をしている人が集まってしまうと、外がなくなってしまいやすいんですね。
- 作業やコミュニケーションのなかでの意外性がすくないんです。
- これが同じ社内でも、ぜんぜん別の部署の普段はほとんど顔もみないような人なら別ですけど、それでも同じ会社としての共通理解が外部性をすくなくしまうということはあります。
- IDEOが外の会社とのコラボレーションを推奨するのも、ここに理由があります。また、領域横断的な好奇心を大事にするのもおなじことでしょう。
グループワークが組織内でちゃんとできるかどうかって結構重要なことだと思うんですよね。それによってIDEOのようなクリエイティブな組織になるか、ただの凡庸な組織になるかの違いが生まれてくるわけですから。
グループワークの技術はきちんと組織内で身につけていかないといけないんじゃないかと思います。
異質なものを招く技術
どうでしょうか? 僕が「遊びに関するメモ。」で、なぜ古来の神を招く祭りの場としての「遊び」とグループワークの関係に触れたのか、なんとなくわかってもらえたでしょうか。折口信夫さんのマレビト(客人)論が、外から来る人びと―神を招く場を祭り=遊びの場として論じたように、遊びの場というのは、外からくる異質なものをもてなす場です。
これが日本文化においては、茶会、連歌会、聞香の会、立花の会など、主客が集い一座建立する遊びの場へとつながっていきます。
田中優子さんが『江戸はネットワーク』で述べているように、そういた場には必ずといってよいほど、神座が用意されました。主人が異質な人(客人)を招くことで、そこで遊びが生まれるという意識が、そうした場にはずっと受け継がれてきたわけです。
昔は、異質なものを招く技術というのがちゃんとわかっていたんですね。
偶然をデザインする技術
これは『ワークショップ―偶然をデザインする技術』という本を書いている中西紹一も書いていることですね。私は、武家社会における茶道のスタイルは結構ワークショップだったのではないかという気がしているんですよ。身分の差はあるのに、にじり戸をくぐった時にそれはなくなって、ある種の作法は必要なんですが、それがちゃんとしていれば、後は「同時性」をどれだけ楽しめるか、という点に集中できますよね。
この本のサブタイトルである「偶然をデザインする技術」というのも、まさにグループワークのポイントがきちんと押さえられていると思います。グループワークには異質な者同士がひとつの場における「同時性」のなかで一座建立しながら、偶然から生まれる発想を積み重ねて成果につなげていくことができるかというところに、そのむずかしさも、それを行う意味もあるはずなんです。
遊びのなかのはかなさ
もうすこし日本文化における遊びの場ということを紹介しておくと、前に「「連」という創造のシステムを夢想する」でも書いたように、江戸期のさまざまな文化は「連」と呼ばれたネットワークの場によって生まれています。まさにグループワークによる創作が盛んだったんですね。その連というのも、グループワークにおける「異質性の受容」というところをしっかりと押さえています。
連は、会社組織などとは異質な一回性をもち、思想運動・芸術運動などとは異質な、純粋に機能的な性格をもっている。ひとつの具体的作業のために集まり、それが終われば解散する。
「ひとつの具体的作業のために集まり、それが終われば解散する」。これなんて、個人が自主的に参加するワークショップの形に近いですよね。
また、その「連」の場というのも、
彼らにとっての「場」は権威や論理によって保証されたものではなく、前提がはっきりしている以上、あとは実際の働きによって保証されるものだからだ。
といった具合に、そこで行われる作業そのものによってはじめて保証されるという意味で、いわゆる遊びに近い。
- 遊びはトランプゲームでも鬼ごっこでも野球やサッカーのようなスポーツでもそうであるように、制約となるルールはありながら、そのルールは遊びを遊ぶため以外には意味がない。
- でありながら、ルールを破れば遊びそのものが成り立たなくなるという「実際の働きによる保証」というはかなさをもっています。
- この遊びのなかのはかなさに意味があるのだと思います。
- グループワークというのはある意味ではハレとしての仕事の場です。
- 日常のケの場からは切り離された形で、にじり口を通った様々な身分の人が身分を忘れて「同時性」の場を共有するように、日常の立ち位置からは離れた場所で異質なものに出会うというところにグループワークという仕事の方法の価値が生まれてきます。
本当はこうしたことさえわかっていれば、同じ会社の顔見知り同士でもグループワークを成功させることはできなくはないんですね。
一に結構、二に手続き、三に趣向
それがある種の祭りであり、異質のものと出会い、それをもてなすことで自分たちが変化していく場だということを忘れなければグループワークの成果は出せるはずです。その場合は人ではなく、テーマだったり作業の場所だったりを工夫して、異質なものとの出会いがその場に生じるよう工夫すればよいかと思います。
こうしたハレの場としてのグループワークの場を形成するためにはいくつか条件があるはずです。
例えば、これですね。
能楽よりあとに出現してきた茶の湯などでは、そこにだれもが主客を入れ替えながら入っていけるようなシステムになってきた。しかも、床の間には各種の情報メッセージをもった掛け物や花や置き物をアドレスできるようになっているし、茶道具のひとつひとつにも由緒由来というデータベースがついていて、亭主や客人はこれを売価に一座建立の場を共有できる。
「意欲」のところにも書きましたが、グループワークを行う場の設え=室礼が大事か、と。
松岡正剛さんは遊びの本分として、「一に結構、二に手続き、三に趣向」をあげています(「おもてなしのための主人の覚悟とユーザーエクスペリエンスのデザイン」参照)。
まぁ、あとは自分自身で体験しながら、それぞれ藤井さんのよう考えてみてください。
現在参加者募集中のワークショップ→「シナリオとプロトタイプによるデザイン法」(5月27日(水)10:00~17:00)
関連エントリー
- 遊びに関するメモ。
- 「連」という創造のシステムを夢想する
- 参加型の創造の場としてのワークショップ
- なぜグループワークなのか(第2回ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ2日目)
- ワークショップ―偶然をデザインする技術/中西紹一編著
- 江戸の想像力 18世紀のメディアと表象/田中優子
- 江戸はネットワーク/田中優子
この記事へのコメント
たこ
自分自身に興味のないことであったり、無作為に参加させられたりするとやる気が半減します。ゴールや目標を定めないで場当たり的に進めてしまうようなプロジェクトも実際よくあり、そういう場では、ほとんどアイデアらしきものも出ないまま、プレゼン資料を作るはめになります。一度作り上げると、それに対して反応は出るので進むといえば進むのですが、かなり非効率的です。
棚橋さんがおっしゃるように内からは発想やアイデアは生まれにくいのかもしれません。
関連性のあまりない人同士がプロジェクトを組んだ方が意見も出しやすいと思いますし、客観的に意見を素直に聞き入れることもできるとおもいます。