梅の花 2009.03.14

梅の花 2009.03.08」で、うちの盆栽の梅が開花しはじめた話を書きましたが、ほぼ満開に近い状態になったのであらためて(といっても、梅の場合、桜のように一気に咲くのではないので満開を楽しむというのでもないのですが)。



まつ人もこぬものゆゑに 鶯のなきつる花を折りてけるかな
『古今和歌集』
学校退けての帰りがけに、我れは一足はやくて道端に珎(めず)らしき花などを見つくれば、おくれし信如を待合して、これこんなうつくしい花が咲てあるに、枝が高くて私には折れぬ、信さんは背が高ければお手が届きましよ、後生折つて下されと一むれの中にては年長なるを見かけて頼めば、さすがに信如袖ふり切りて行すぎる事もならず、さりとて人の思はくいよいよ愁(つ)らければ、手近の枝を引寄せて好悪かまはず申訳ばかりに折りて、投つけるやうにすたすたと行過ぎるを、(後略)
樋口一葉『たけくらべ』

昨日の「人間能力向上のための教育について」で書いたことにもつながるが、色も香も重なりあって春の訪れを感じられるところに恋の思い出も重なりあうことができる。色や香やことばが感覚的に結びつかないようなバラバラの情報ばかりを摂取していては、恋に身を焦がすこともままならない。恋のうつろいは自然のうつろいに折り重なってはじめて開花もするし散って残り香のような思い出を残すこともあるのではないだろうか。

そうしたうつろひを和歌や文学にうつしとれるところに、にほひたつことばの文化がかつてはあつたのだろう。それを成立させるのは間違いなくまわりの自然に身を寄合ひ、そののうつろひを五感全てで感じとることができた感性が生きていたからではないかと思ふ。



身近な物事の変化を身体を通じて日々直観することを忘れて、いったい、どんな生き方、生活をみずから紡いでいけるのだろうか。

 

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