人間能力向上のための教育について

今日は「第2回ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ」の反省会でした。
そこで話題にあがった内容をちょっと僕なりに展開。

話題になったのは「サービスが行き届きすぎている」という話。
何から何まで手助けしてくれ、人間が自分で考えて自分の力でやるという機会が減っているために、普段の生活のなかでいろんな人間的能力を向上する機会が失われているのではないかという話でした。「人的資源の生態学的問題」で書いた「地球資源の問題が社会的問題であるのと同様に、社会的レベルでの人的資源の不足という問題として社会生態学的に捉える必要があるのではないか」ということともつながる話。



どういうことか、いくつか例をあげるなら、

  • キーボードを叩いて変換すれば文章は書けるので、漢字が書けなくなった
  • 携帯電話にメモリーされた電話番号をつかって電話をかけるので、電話番号を覚えなくなった
  • Powerpointなどのプレゼンテーションソフトを普段使っているために、いざ何かをある程度見栄えよく一枚の紙に手描きでまとめあげる作業をさせると空間構成力がなっていない描画になってしまう

といったあたりが、それにあてはまります。

日常の訓練の場が失われたために、わざわざ教育プログラムを用意しないといけない

もちろん、これらは「サービスが行き届きすぎている」ために、自分で考えて自分の力でやるための訓練をする機会が生活の場から失われている例のほんの一部でしかないはずです。そして、そうやって失われている能力の多くが人間のベーシックなところの能力だったりするのではないかと危機感を覚えています。

さらに日常生活から機会が失われてしまっているために、本来であれば普通に生活していれば身についていたはずのことも、わざわざ教育的なプログラムを設けて訓練させなくてはいけなくなっているのですが、本来、日常の空間で普通に生活をしていれば身についたはずのものを意図的に設けた教育プログラムで身につけてもらおうというのはなかなかむずかしい。また、そのためのコストは捻出しにくいでしょう。でも、それがベーシックな能力だったりするので、いくら即戦力的な人材を育てる/になるためにもうすこし表層に近いレベルのスキルを養う訓練をしても、ベーシックな能力が欠けたままだと、そこで得たスキルがいまひとつ開花しにくいし、応用力に欠けたりする面も出てくるのではないかという気がしています。

例えば、反省会で問題にあがった例では、ワークショップでのワークモデル分析の図を描く場合でも、「ていねいに描きましょう」と事前に伝えても、他人が見たらよくわからない乱雑な図になってしまうということがありました。
じゃあ、どうやったら他人(といっても一緒に行動の分析をしてるメンバー)が見てわかる図をていねいに描けるかということを教えるとなると、もう、それは本来学んでほしいユーザーの行動とその背景を理解することを目的としたワークモデル分析のトレーニングからは外れてしまいます。

今回のトレーニングは、WebディレクションやWebデザインを仕事にしている人が対象だったので、情報をある程度構造化して、他人にわかりやすく描くというスキルは本来身についていていいことだと思うんですね。もちろん、これは参加者の能力が低かったという話ではぜんぜんなくて、たぶん、ごくごく一般レベルのWeb制作に関わる人たちだったと思います。その意味では、たぶん、参加した方はみんな、PCを使って同じことをさせればきっと「他人が見てわかる図」を描けたんじゃないかという気がするんですね。

でも、ペンで紙に向かって同じことをさせるとできない。問題はそこです。

空間構成力がないと他人の話を聞いて全体構造を組み立てることもできない

PCを使って図を描くことと紙に図を描くことの違いは、前者が適当に置いたパーツを組み合わせながら全体のバランスをあとから調整する作業になるのに対して、後者は白紙の状態ですでにある程度は全体の図のイメージが頭に浮かんでいないとバランスよくまとめることができない点です。PCでは「他人が見てわかる図」を描ける人が、紙に向かって同じことをするのができないのは、この全体的な視点での空間構成力が普段から鍛えられていないせいもあると僕は思っています。

そして、実はその空間構成力の弱さは単にアウトプットの問題だけでなく、インプットにも関わっていて、空間全体の関係性を丸ごと把握する力が弱ってしまっているために、全体を瞬時にざっくりとつかみとる-いわゆる「木ではなく森を見る」-という能力が欠けてしまっている要因の1つだと思うのです。この能力が欠けると、目で見たものの全体像を把握することがむずかしくなるばかりか、他人の話を聞いた際の全体構造をの把握ということも困難になるはずです。クライアントが話している中からクライアントが実際に話していること以外の真のニーズ・問題をつかみとることができない。そうすると、言われたとおりにしかできないというクライアントの不満につながったりもするでしょう。

さらに他人の話を聞いて全体構造が把握できないということは、当然その裏面ともいえる文章構成力にも影響がでますし、文章の読み取り能力にも問題が出てくるはずです。
きっと一枚の紙に手描きで何かを構成するという訓練の場が日常から失われると、そのくらい人間の能力に与える影響は大きいはずです。

その能力を鍛えるための訓練はたぶん図や絵を描くことだけに限らず、書道のようなものでもいいんだと思いますが、実際、そういう機会はほとんど普通の人の日常からは失われているんじゃないかと思います。

日常生活の場において意識的に身体に負荷を与えてみる

そうなると、日常とは違うところで、別に教育・訓練の場を設けないといけなくなります。
まぁ、手描きで描く訓練なら、考え事をする際は1枚の紙に考えの全体をまとめるという方法を日々やっていけばなんとかなると思います。それをめんどくさいと思ってやらなかったら、どうにもなりません。

たまに誤解しているなと思うことがあるのは、ラクして何かを覚えようと考える人がいることです。知識を増やすだけなら、それも可能なケースがあると思いますが、スキルを身につけようとしたら、ラクして何かが身に付くということはほとんどないでしょう。
何かを身につけたかったら自ら積極的に身体に負荷をあたえるような訓練を日常的に繰り返し行うことが必要なのだろうと思います。すこしむずかしく感じるくらいの負荷が身体にスキルを刻んでいくはずだからです。

このへんはスポーツが練習しないとうまくならないのとまったく差がないはずです。このへんは「テキスト情報過多の時代に人は何を感じるか」で書いた話とつながることで、「いまの環境では、そうした自分自身の感覚の変化によって情報が変化したり、また対象物のほうも静止することなく刻々と姿形を変えることで、得られる豊潤な情報というものが身のまわりから失われている」のですから、自ら意識的にそうした変化する情報を身体で感じとれる状況に自ら追い込んでいく必要があるんですね。
実戦の場で訓練できなければ、練習で素振りやノックを受けるしかない。身体で感じる感覚を繰り返し、身体に与えることでそれを身体的な記憶に変えてあげることが必要です。

五感が複合した記憶をつくる

その際に注意することは、なるべく五感全部が働くような形で訓練を行うことだと思います。

いまの環境の問題は、環境から与えられる情報に五感が働く要素が減っているということです。特に、嗅覚、触覚の情報がすくないのが問題ではないかと思っています。テレビから得られる情報は視覚情報と聴覚情報ですし、Webになるとそこから音声がなくなったり、下手をすれば視覚情報も活字だけになる。これでは身体的な記憶をつくりあげるためのソースを視覚だけをたよりに集めなくてはならなくなる。そうではなく五感すべてがリンクして働くような、自分で実際に何か物に触れながら何かを体験しながら行うような訓練の機会を増やす必要があるんですね。そうでないと、身体的記憶能力が効果的に機能せず、訓練そのものが非効率なものになると思います。

夏の暑さと蝉の鳴き声とかき氷の冷たさが夏の楽しい思い出とリンクして蘇るといったようなリッチな記憶のイメージが形成されないと、記憶の形成も再生もむずかしくなるはずです。クーラーの効いた部屋で夏の空も見ずに過ごした夏の日の記憶は、夏という季節と結びついた記憶になりにくいはず。そうなると、あれっていつのことだっけ?という風に、時間の特定にロスが生じます。
そんな風に記憶の形成・再生に大きなロスが生じた状態では、やっぱり瞬時に状況から何かを感じ取って適切な判断をしたり、瞬時に得た情報から全体の構造を把握してイメージを描いたりといった能力に与える影響は大きくなると思うんです。そして、ロスによって相対的に記憶の蓄積がすくなければ、ここでもやっぱり木を見て森を見ないという問題が生じやすくなる。

人間の身体的能力と環境の影響関係も考えてデザインを見つめ直すことも必要では?

型とオリジナリティ(あるいは「他者の経験から学ぶ」)」でも引用しましたが、『古今和歌集』の「折りつれば袖こそにほへ 梅の花ありとや こゝに鶯の鳴く」といった歌をよんで、梅の香(嗅覚)と鶯の声(聴覚)が結び付けられることで、そこに欠けた梅の花(視覚)を想起するというイメージの連鎖が起きないと、嗅覚、聴覚、視覚の情報をそれぞれ覚えなくてはいけなくなる。それでは人間の身体能力を十分に活用しないまま、頭だけで記憶を形成することになるので記憶形成そのものが困難になるし、バラバラに記憶した情報は再生時にも不都合が生じやすくなるはずです。

結局、いまの環境を埋め尽くしている物のデザインというのは、そうした人間の身体的記憶という点をおろそかにしてしまっているのだと思います。いわゆる人間中心設計的なアプローチもその点への配慮はいまのところ皆無だといっていいでしょう。

それゆえ、普通に生活しているだけでは五感を活用した人間能力の向上のための訓練が行いにくくなっており、意識的に別個の教育・訓練の場を設けなくてはいけないというおかしな事態になってしまっている。
当面はいまの環境でいかに自分たちの人間能力の衰弱を抑止するための訓練を意識的に行っていくほかないとはいえ、長期的にはそうした人間能力の衰退を生じさせないことも含めた生活環境のデザインにも目を向けていかないと無駄な教育コストばかりがかかってどうしようもない状況になるのでは?と思っています。

  

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