型とオリジナリティ(あるいは「他者の経験から学ぶ」)

昨日の「テキスト情報過多の時代に人は何を感じるか」の続きとして。



ことばは人間の感覚をバラバラに分解してしまいもするが、それを再びつなぎとめるのもことばだったりします。
たとえば、『古今和歌集』にもこんな歌がある。

折りつれば袖こそにほへ 梅の花ありとや こゝに鶯の鳴く
よみ人しれず

枝を折った際に袖に香りが移ったのか、花はここにはないのに花があるかのように鶯が鳴いている、という歌。梅の香(嗅覚)と鶯の声(聴覚)が結び付けられることで、その情景に欠けた梅の花(視覚)を想起させている。

和歌のデータベースと記憶の検索システム

梅といえば鶯というように、和歌の世界では、ひとつのことば(イメージ)が別のことば(イメージ)を想起させるデータベースのような構造があります。そこでは梅の花ということばは、梅の香や鶯の声の記憶を呼び覚ますキーとなる。

もちろん、ことば=イメージをつなぎとめているのは、人間の身体的な記憶であって、その記憶は個々人の違いをこえて伝播していきます。実際には個々人それぞれが想起する梅の香の記憶は別々なのですが、ことばはその差異よりも類似を喚起するように作動する。同じものが共有されるのではなく、類似する別々のものがつながっていく。

それは個々の梅の花がそれぞれ違うのにもかかわらず、去年の梅も今年の梅も梅として認識されることにもつながるし、かつ、どんな体験も決して同じものとしては反復されないのだということを思い出させてくれます。



何か新しい体験ができないかと探し回っている人びとは、実はあらゆる体験が常にはじめての体験であることを見落としています。個々の体験間の差異を捨象することで去年の梅と今年の梅の違いを感じとれなくなっているのです。
しかし、実際に自分で梅を育ててみればわかりますが、去年の梅を今年もまた期待するのはきわめてむずかしく、結局今年の梅は去年のそれのおもかげをうつろわせながらも、別のものとして存在します。

ただ、その違いを感じつつも、類似する個々の体験全体を歌のことばで写しとるのが詩的行為であり、その差異を捨象して同じものの反復を夢見る分析的行為の言語とは大きく異なります。

方法依存症のひとつの要因

これがわからないと型はわからない。

先にも書いたように、詩的表現は個人間の違いをこえて体験的イメージを伝播させる力をもっています。そして、ここに型との関係がある。

詩的表現を通じて個々人が感じとったイメージ=形象は、型を共有しながらも、それぞれに異なる形をもちます。その違いをこえて、人から人へ型を伝えていく力が詩的なことばはもっています。
詩的表現から感じるイメージを共有することは、あいまいさを捨て去ることで伝え間違いがないようにした表現で他人に何かを伝えるのとはまったく別物です。師から弟子に型を伝えることと、マニュアルによってやり方を伝えるのが別物であるのと同じように。

型の場合であれば、そもそもそれが類似者の再帰であるがゆえに、常に守・破・離という展開をその内部にあらかじめ有していて、そのため、たとえ離の段階にいたっても元の型とのつながりを維持できる一方で、マニュアルの場合は基本的には正しいか間違っているか、あるいはまったく別の方法なのかといった具合に互いに自分以外のものを排他してしまう方向に動いてしまう。

方法自体が互いに排他しあう状況が生まれてしまうところに、人の感性の曖昧さを方法から排除して標準化しようとしてしまうことのツケが生じています。これでは方法同士がたがいにつながりが持てずにバラバラになり、検索性を失ったあげく、方法そのものを探し回らなくてはいけない「方法依存症」への道を切り拓いてしまっています。

方法依存症の別バリエーション

他者の方法の収集ばかりに明け暮れる症状がある一方で、その逆に他者の経験をないがしろにする思考も存在します。ただ、この他者を排他的に扱う志向性も結局のところ、マニュアル的思考を脱していません。自らの経験もしょせんは他者の恩恵を得てしてしか成り立たないことを感じられない点で、結局、それは「方法依存症」の別バリエーションでの表出でしかないのです。
テキスト情報過多の時代に人は何を感じるか」でも、テキスト情報の比率が高くなっているといっているわけで、テキスト情報がダメだといっているわけではない。自分で体験するのも大事だが、本を読んだりして他者の知を摂取することだって有効であることに変わりはない。片方に偏るのがいちばんよくないわけで、とにかくあらゆる手段を講じて自分を磨いていけばいいのです。自分の知ではなく、自分の感性をね。



ジャン・コクトーは言いました。
「私は人々がオリジナリティーにこだわることが大嫌いなだけなのである」と。

自分の経験にこだわり、他者の体験を排他的に扱うのなら、それはコクトーが嫌ったオリジナリティーへのこだわりを捨てきれていないということです。

ジャン・コクトーは「私がいちばん嫌いなのはオリジナリティだ」と言っていますが、これは、オリジナリティが競争と差別の上にばかり成立するからです。

オリジナリティが競争と差別の上に他者を排他する方向で働くとすれば、型から学ぶというのはまさにその正反対のに他者とのつながりをアナロジカルに模索する方向で働くのです。

他者に学ぶ力がなければ、結局は自分自身から学ぶことさえできないのです。経験とは常に他者と自分の関係において成り立つのだから。

その他者を自分とは別物として排他的に扱うのなら、結局、自分の経験も半分しか自分のものにできていないということです。そうではなく、他者との類似・つながりを感じつつ、謙虚に他者の経験から学ぶという感性こそを大事にしなくてはいけないのだと思います。

梅の香と鶯の声からそこにない梅の花をイメージするかのように、身体的には切り離された他者の経験からも何かを感じとることができれば。

   

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