言い方を変えると文字情報過多。さらに言い方を変えると、一人の人間が摂取する情報全体の割合のなかで占める文字情報の比率がもしかしたら高くなっているんではないかと思います。

「方法依存症」というエントリーでは、方法論の情報収集ばかりを行う割には、自分でその方法を試してみてそこからのフィードバック情報を自分で活かすことが少ない人を方法依存症という風に仮に呼んでみました。
ただ、それは方法論の話に限らず、もっと一般的な話としてみた場合でも、テキスト化された情報の収集には熱心な割に、自分で何かを実際に体験してみて得られる生の情報を役立てるということが相対的に少なくなっているのではないかと思うんです。
純化された情報
自分で体験してみて直接情報を得るよりも、誰かがテキスト化した情報を間接的に得ることが増えているのではないかと思うんです。とうぜん、テキスト化された情報から得られるものは、生の体験から得られる情報に比べれば、純化されています。豊穣ともいえる不純物が濾過され、デジタルな情報になってしまっている。ただ、テキスト化によって濾過されたものが本当に不純物であるかどうかはわかりません。同じ物事をみてその状況をテキスト化するのでも、別の人がみたら違う形にテキスト化するかもしれないのだから。
ただ、いったん、テキスト化されてしまえば、そうした元の物事がもっていたはずの情報はすべて捨象されて、テキストに変換された情報だけが残る。情報は純化され、デジタル化される。
テキスト情報は読み違えはあっても、テキストが表現する内容は誰がみても同じです。一方で、生の体験はそれが表現するもの自体が異なり、人がそこから何を読み取るかはそれこそ千差万別となります。情報化された情報よりも、まだ情報化される前の生の体験のほうがはるかに情報量は多いんですね。
機械化された情報、デジタル化された情報
その意味では、問題はテキスト化された情報だけではありません。人工物-自然物の対比にそもそも情報量の差異がみられます。
機械化された人工物の体験は、自然物から得られる体験よりも情報量が少ないといえます。コンクリートで塗り固められた階段は、舗装されていない山道よりも情報量が少ない。凸凹があったり、傾斜がすこしずつ違ったり、時には木の根っこが飛び出しているかもしれない山道はたんに上るだけでも、単純な繰り返しである階段よりも、はるかに多くの情報を与えてくれるでしょう。
人工物でも、デジタル化されたものではさらに情報が純化されます。鉛筆やボールペンなら同じ一本の線を引くのでも使う人によって様々な個性が生じますが、パソコンを使えば表現できる線の種類はあらかじめ決まってしまっています。飲食店のメニューはわがままをいえばメニューにはないものも注文できますが、デジタル機器のメニューはそこに書いてあるものしか選べません。
選択肢と選択によって得られるものの関係が非常に厳密に決まってしまっているのがデジタルな世界です。あらゆる曖昧さがそこからは排除されていて、情報を非常に純化されてしまっている。利用者による千差万別の違いはそこにはありません。
知ってる?
こうした意味で、テキスト情報に接する割合が増えているのと同時に、機械化された情報、デジタル化された情報に接する割合が非常に増えているのではないかと思います。もちろん、これはなんとなくそうではないかと思っているだけで、実際にその比率を測ってみたわけではありません。
ただ、もし本当にテキスト情報に接する比率や、機械化された情報、デジタル化された情報に接する比率が増えているのだとしたら、ひとりの人間が情報に接する量というのは反比例的に減少しているのではないかと思うのです。テキスト化、機械化、デジタル化によって純化された情報は、生の体験や自然物がもっていた豊潤な不純物をろ過し捨象してしまっているからです。
たとえば、デザイナーの原研哉さんはこんなことを言っている。
今の社会は情報過多と言われますが、実は「過多」ではないのではないか。「半端な」「欠片のような」情報が、おびただしくメディアの中に存在しているだけではないのか、とその時に気づいたのです。欠片一個一個の情報の量は、むしろ非常に少ない。情報量が半端なものがおびただしく存在している状況に、脳はストレスを感じているのではないでしょうか。原研哉「HAPTIC」
『デザイン言語2.0 インタラクションの思考法』より
また、こんなことも。
最近「知ってる、知ってる」とよく言いますよね。「ル・コルビジェって知ってる?」「あ、知ってる、知ってる、雑誌に載ってた」「バウハウスって知ってる」「あ、知ってる知ってる、テレビで特集してた」と言います。情報にタッチすれば「知ってる」になるわけです。原研哉「HAPTIC」
『デザイン言語2.0 インタラクションの思考法』より
「知ってる」とはいったい何なのでしょう。テキスト化された情報、名前を知っていると、物事を知っていることになるのでしょうか?
知れば知るほど、わからないことが増える
僕は「デザインする人に必要な能力は?」というエントリーで「知識があるから疑問をもつことができる」「知識はわかるために必要なのではなく、わからないことを発見するために必要」と書きましたが、テキスト化された情報に触れるのではなく、実際に自分で直に物事に触れて生の体験をすると、知ることがよけいにその対象をわからなくさせるということによく出会います。生の物事というのはそれだけ豊潤な不純物を抱えているからで、知れば知るほど、わからないことが増えてくる。わかったことは単に自分のその時点での感覚で知り得た情報であり、自分の感覚がもっと研ぎ澄まされればもっと別のものが見えてくる、感じられてくるだろうということがわかってくる。
テキスト化された情報に接する比率が増え、まわりの環境も自然物よりも機械化、デジタル化されたものの比率が増えているいまの環境では、そうした自分自身の感覚の変化によって情報が変化したり、また対象物のほうも静止することなく刻々と姿形を変えることで、得られる豊潤な情報というものが身のまわりから失われているのかなと感じます。

花は咲き、葉は芽吹き、虫は生まれ育ち、風は流れ山々はその風貌を日々変化させるというのに、僕らはそうした季節の移ろいを自分の身に写しとるどころか感じとることもままならなくなっているのではないでしょうか。時とともに訪れる神の声をすでに巫女的な能力を著しく喪失した僕らはほとんど聞き逃しているのかもしれません。そうして神と遊ぶことを忘れた人間はごく身近な人を招きもてなす遊びすら忘れて、たがいにネットを介してしか接触をもたなくなりつつある。
情報が不足した環境で僕らは何を感じるのか
現代の社会は情報過多というよりむしろ情報不足です。脳が感じるストレスも情報過多から来るものというより、純化されすぎて何かを判断するのには少なすぎる情報しか与えられないことによるストレスなのではないかと思います。
物理的なボタンであれば押せたかどうかを触感により判断できても、タッチパネルのヴァーチュアルなボタンは触感から得られる情報がなく押せたかどうかがわからない。手動の扉は手に感じる重みで開ける動作が順調に行えているかどうかはわかっても、自動ドアが反応しない時には何が悪いのかは自分で判断できません。
そうした情報不足がテキスト化、機械化、デジタル化されたいまの環境のいたるところにあるのではないでしょうか。
そして、そうした与えられる情報が少ない環境で常にストレスを感じている脳は、自ら積極的に外部の情報を得て自らの行動を決定するという行為を行うことがどんどん下手になっているのではないか。
もし、そうだとしたら、自分の感性や判断力を守るためには、個々人が積極的に、テキスト化、機械化、デジタル化された情報以外の情報が存在する環境に自ら足を踏み入れる努力をして、脳と身体の関係性を修正していく必要があるのではないかと思うのです。自らが感じた生の体験に対する身体の反応を磨いていく努力が必要なのではないかと思います。
自らの感性を磨くことで「見渡せば花も紅葉も無かりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」といった短いテキストからは、かえって花も紅葉もない情景に花や紅葉を映し出すことも可能になってくるのでしょう。人工の表現といえども、高い感受性をたたえた詩的な表現でそこに自然の豊饒さを写しとることは不可能ではない。テキストの文学的な表現、詩的表現を味わうための、テキストと身体で感じる感性をつなぎとめる訓練ができれば、テキスト情報過多であっても状況はだいぶ変わってくるのではないか。でも、そのためにはテキスト以外から物事の深い皺を読み解ける感受性そのものを日々鍛えていくしかないのですけど。
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この記事へのコメント
べええ
1つ目に、アナログ情報をデジタル化したときに情報落ちが発生します。デジタル化が進めば進むほど、欠落する情報が多くなる事実があると考えています。
2つ目に、情報過多の現代では、アテンションの方に重点が移っており、情報自体の価値がおざなりになっている事実があると考えています。
私のBlogでもこの内容で日記を書きました。宜しければご覧下さい。
tanahashi
もう一度、考えるきっかけになりました。
考えた結果はこのエントリーに。
http://gitanez.seesaa.net/article/117883342.html
いつも以上に長いエントリーになってしまいましたが。