遊びに関するメモ。

遊びとグループワークの関係が気になっている。

特に、ひとつの組織のなかで仕事として行うワークショップと、自由に応募してきた所属もバラバラの参加者がワークショップでのグループワークでの仕事の仕上がりが違う点が気になっている。

どちらができがよいと思いますか? 実は後者のほうなんです。
特に、2回開催させてもらった「ユーザー中心のユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ」のグループワークはうまくいっている。

これは何故か?



ひとつには単なる共同作業とコラボレーションの違いを考えていく必要があるだろうな、と。違う眼で同じものを見るから創発が生じる可能性があるのであって、何人集まろうと同じような眼でみてたら、ひとりで作業するのとあまり変わらないか、それ以下になるんだと思う。

そして、もうひとつに、僕はこの点で「遊び」と複数の人びとが集まって行う仕事との関係性を感じているのです。
しかも、以下に引用するような意味での「遊び」として。

遊びに関するメモ

以下、「遊び」というキーワードで気になった文章を引用。

遊びの本分は、一に結構、二に手続き、三に趣向にある。これは今も昔もあまり変わらない。変わってほしくない。これをまとめて武野紹鴎の時代から「作分」といってきた。
ここで注目されるのはアソビナーだ。そこは儀式の空間であるとどうじに、その名のように遊びの場だった。じっさい、祭そのものが儀式であるとどうじに遊びであることは、今日の神社の祭とかわらない。
すべての遊びは規則の体系である。規則は、何が遊びであり何が遊びでないか、すなわち許されるものと禁じられるものとを決定する。この取りきめは恣意的であり、同時に強制的であり、決定的である。それは、いかなる口実があろうと破られてはならない。もし破られるなら、遊びは即座に終わり、違反という事実そのものによって破壊されしまうのだ。なぜなら、遊ぼうという欲望、つまり遊びの規則を守ろうという意志によってだけ、規則は維持されているからである。
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』
遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由とゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。祝祭においてのみ許される荘厳の虚偽と、秩序をこえた狂気とは、神に近づき、神とともにあることの証しであり、またその限られた場における祭祀者の特権である。
白川静『文字逍遥』
俳諧のサロンはもっともサロンの概念に近く、しかも長い歴史をもっているものなのだが、サロンの場は非日常的な特別な場となる。しかしだからといって権威的であったり遊びの場でなかったりするわけではない。たとえば近世文化のなかでもっとも快楽的でエロティックで無秩序な芝居の世界もまた、同時に神を祭るものであった。
我国に田遊びという藝がありますが、これは語から言つても、田におけるあそびです。遊びは日本の古語では鎮魂の動作なのです。楽器を鳴らすこと、舞踊をすること、または野獣狩りをすること、鳥・魚を獲ることをもあそびと言ふ語で表してゐますが、これは鎮魂の目的であるからです。
あそぶこと、つくること、くらすことも古代からの人の営みであり、特別なことではない。これらのことは生きていく上で自然に行われてきたことで、互いに連携したひとつのことである。

マレビト(客人)としての神のもてなし、遊びに参加する人のあいだでの規則の共有、遊びの場の日常からの隔離、儀式的な手続き、芸能との関わり、主客の関係性。
こんなところがいま気になっている点。

複数の人びとが集まる場。しかし、ただ集まるだけでは必ずしも何かが起こるとは限らない。そこに結構、手続き、趣向が用意されると、そこは遊びの場になる。そして、遊びは鎮魂なのだ。タマフリである。そこに神が音連れると、そこは創造の世界、日常とは離れたサロンになる。

もうすこし情報も集めつつ、まとめていこうか、と。

   

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