方法依存症

方法論の収集ばかりに明け暮れている人を、仮に方法依存症と名づけてみたい。
方法依存症に値するもうひとつの条件は、方法論を収集している割にその方法を使ってうまくいったことがすくないということである。
これはもったいない。意欲があるのに空回りしてしまっているのだから。
そこで、このことについてちょっと考えてみた。

まず、そのことを考えていくにあたって、方法を区別してみる。
形式知化された方法と暗黙知的な方法に。

形式知的な方法:例えば、KJ法

形式知化された方法とは、方法に含まれるタスクの内容が明文化でき、かつタスクを行う手順やプロセスが明記されているものをいう。逆に暗黙知的方法とはそうでないものを指している。



例えば、KJ法であれば、

  • 最初に単位化された情報を書き込んだ束を作成し、
  • 次にその情報の束をいったんバラバラにして、
  • その中から類似すると思われる情報を集める。
  • 集めた情報群に対してその情報群全体を言い表すラベルをつけ、
  • そのラベルを一番上にして情報群を輪ゴムなどで束ねてひとつの要素と見なす。
  • そこでまた、ひとつのラベルを上にして束ねた情報群も要素として類似する情報同士を集めてラベルをつける。
  • これを繰り返していくうちに最初は100個あった情報でも、10個前後の束にまとめられる。
  • 次はその10個前後の束の関係を図式化する。
  • 大きな情報の束の関係性を図式化できたら1番上の輪ゴムを外して、その中の情報群の関係をさらに図式化していく。
  • そうすると最後には情報全体の関係性が見えてくる。
  • 次に全体の関係性を図式化したものを文章にしてあらわす。
  • 文章化をするなかで補うべき言葉があったらそれを新しいカードに書き込みつつ、文章をつくっていく
  • こうした作業を行うことで問題を俯瞰的に整理することで問題解決の方法を発想する

という形で、プロセスや個々のタスクの内容を明記することができる(かなり要約した形でザクッと工程のみを書き上げたので、もうすこし知りたい人は『発想法―創造性開発のために』を読み、自分で実際にやってみて方法を感じとってみてください)。

このKJ法のように、タスクやプロセスが明文化できる形式知化された方法には、多くの場合、それを呼称するための名前がついているのではないかと思う。

暗黙知的な方法:例えば、PCのキーボードを打つ方法

一方で暗黙知的な方法とは、こうしたタスクやプロセスの明示がなされていないもの、あるいは、その明示が不十分なものを指している。

例えば、PCのキーボードを打つ方法などもそのひとつ。
これも一部は明文化することが可能だろう。ローマ字での日本語入力の場合であれば、こんな風に。

  • キーボードに指を添える。右手の人差し指を[J]のキーに、左手の人差し指を[F]の位置に。
  • 打ちたい言葉・文章にあわせて、その言葉・文章を構成する一音ずつを頭のなかでローマ字にして該当するキーを指で叩く。その間、画面を見ながらローマ字で打ったもじが正しくひらがなで表示されているかの確認を同時に行う。
  • ある程度の言葉を構成する音をキーで打てたら、変換用に割り当てられたキー(スペースキーなど)を叩く。
  • 期待する文字に変換されれば、確定用に割り当てられたキーを叩き、そうでなければ、再変換用に割り当てられたキーを叩く。
  • その作業を繰り返しながら、言葉・文章の入力を完成させる

随分、タスクとプロセスの明文化ができているではないかと思われるかもしれないが、実際、これは無理やり明文化したものである。実際、キーボードを打つ方法を教えるのに、こんなタスクとプロセスを見せて教えたりはしない。さらにいえば、このタスクとプロセスを教えたからといって、キーボードを打つことはできないだろう。キーボードを打つことを身体が覚えない限り、キーボードを打つ方法を覚えたとはいえないと思う。

多くの暗黙知的な方法は、こうした身体性を有しているのではないかと思う。
野球でピッチャーの投げたボールを打ち返す方法、箸で食事をする方法、墨と筆で文字を書く方法、41.195kmを走破する方法など。そこには確かに方法はあるが、その方法を役立つ形で完全に明文化することはむずかしい。

形式知的方法と暗黙知的方法の境は曖昧

ただ、これはちゃんと考えてみればわかることだが、形式知的方法と暗黙知的方法の区分は実はそれほど明確ではない。いや、実際にはそのあいだに境界はないと考えた方がよいほどだ。

先のKJ法のタスクとプロセスの明文化も、それを読むことでそれなりに似たような行動をすることはできても、それが本当にKJ法と呼ばれる方法が意図した成果をもたらす形で実行できるかといえば、実はそうでない。
実際にKJ法をやってみたことがあるかたなら実感されていると思うが、タスクとプロセスはわかっていてもやってみるとなかなかうまくいかない。それはバットの振り方はわかってもピッチャーが投げたボールが打てないのと変わらない。料理本に書かれた料理の作り方でも似たようなもので、書かれた通りに作っても美味しくできないことは少なくない。

結局は、タスクとプロセスが明文化されていたとしても、明文化しきれない部分が残るし、それは身体性に関わるものだったり、経験的に勘を鍛える必要がある部分だったりするのではないか。KJ法にしたところで、うまくやるには経験的な勘を要する部分は非常に大きい。

手順どおりにやれば失敗しない方法

しかし、ごく一部ながらタスクとプロセスを理解して記憶すれば間違いなく目標とする成果を上げられる方法もある。

例えば、機械の操作法がそうだろう。機械はマニュアルに書かれた通り、操作を行う限り、必ず目標の成果をもたらす(もちろん、機械そのものが壊れていたり、素材に問題があったりしない限り)。
定価販売されている商品を購入するというのもそうだ。棚に商品が並んでおり、商品についた値札に書かれている金額を支払えば、商品が買えないということはない。

これらが手順どおり行えばほぼ間違いなく失敗せずに済むのは、その方法の実行にほとんど人間の能力の有無が関係しないものだからである。もちろん、こうした方法が通じるケースは完全に機械化、システム化された場面に限るので、いくら社会におけるシステム化が進んでいるからといって現実にはそんなに多くはないはずである。

方法依存症

しかし、僕が「方法依存症」だと感じる人は、どうも多くの方法を最後の機械化された方法のようなものだと誤解しているのではないかと思う。

あるボタンを押せばいつでも必ず同じ結果が出たり、1万円払えば何かが手に入る世界がデフォルトだと思ってしまっているのではないか? ああすればこうなる式でしか考えることができず、実際には不確実性が多くを支配する現実のほとんどをそもそも感じ取れずにスルーしてしまっているのではないかと思う。なぜ、そんな風に自分自身を機械のように無能化しようとするのか。

もちろん、そんな風に完全に機械操作のようには思っていないにしても、ある程度、やることとその手順を頭で理解すれば、方法が使えるようになるのではないかと期待しているようなふしがあるのではないかと思う。

そう感じているふしがある人に、例えば、KJ法などのやり方を教えてやってもらうと、自分ができないことに耐えられず、思考がフリーズしたような状態になることがある。あるいは、身体が動かなくなって、見ていると泣きそうな顔をしている人もいる。できないから方法自体のできが悪いのだと考えたりする人もいる。

そこまでひどくなくても、方法というものはすべて明文化できるものだと考えるのか、こちらが教えたこと以上のものを細分化した形で明文化しようとする人もいる。それはそれで悪くはないのだが、度が過ぎると本来その方法がもっていた柔軟性を失うことになる。

方法はどこに宿るのか

そもそも方法というものはどこに宿るのかということを考え直してみたほうがよいのではないか。
それは形式的に明文化されたことばの上に宿るのではなく、あくまでそれを身につけた人びとの身体に宿るのだという風に捉えなおしたほうがいいのではないかと思う。

人びとの身体に宿るのだから、当然、ひとつの名前で総称される方法にもそれを身につけた個々人ですこしずつ違いがでてくる。「型と形」というエントリーで書いたように、原形としての型をそれを真似る=もどくそれぞれの個体が類似の形象を再帰させることが、方法を身につけるということなんだと思う。

われわれはその都度かならずしも同一ではない師の表出する形象を不断の反復と接触とによってひとつの形として肌を通じて肉体の奥深くに体得していくのである。
向井周太郎「原像の崩壊」『デザインの原像―かたちの詩学2』

木々がそれぞれ形を違えても、梅だとか松だとかひとつの名称で呼ばれるように、個々人が身につけた方法にすこしずつ差異があっても、それらが原形と類似した特徴を備えるのなら、それは同一の方法として同じ名称で呼ばれていい。いや、本来、そうした差異を生じつつも原形をもどいていくことが方法を身につけるということなんだと思う。

物まねをきはめて、その物まねに、まことになり入りぬれば、似せんと思ふ心なし
世阿弥『風姿花伝』

そして、方法は身につけることで、それが方法であること自体を意識しなくなる。僕らが日々、階段を昇り降りしたり、ラーメンを食べたりする方法を意識しないように。

方法は同一者の反復ではなく、あくまで類似者の再帰でなくてはいけない。
そこを誤解して、同一者の複製が可能だと考えるところに、方法依存症=方法習得の失敗が生じるのではないかと思っている。
逆にそこに気がつけば、方法論の収集よりも、自らの日常の経験のなかで自分なりの方法を探ったり、身近な人の方法を盗んだりといったことのほうがはるかに重要であることに気づくのではないだろうか。
それから意識して身につけられるよう個々人が努力することも大事だとは思うが、昨日の「人的資源の生態学的問題」で書いたことともつながるが、結局は自然に生活し仕事をしていくなかで必要なことを学びとることができないようになってしまっている環境そのものにも問題があるのだと思う。

方法そのものに力があるわけではない。
方法はただ人が本来もっている力を手助けしてくれる増幅器のようなものにすぎない。

であれば、方法を役立てるためにも、同時に自分自身のもっている力そのものを鍛えていかなくてはいけないのではないか、と。

大事な方法ほど収集対象からもれやすい

そして、もうひとつ。ここまで書いてきたことをちゃんと考えれば、方法には名前が与えられた形式知的な方法よりもはるかに多くの暗黙知的な方法があることに気づくはずである。当然、名前のついていないものは認知しにくく、共有もしにくく、ネットを検索しても見つかりにくいし、そもそも名前がないのだから検索もできないということに気づいたほうがいい。

何をいいたいかといえば、それらは常に収集からもれているはずだということだ。

形式知的な方法よりも数も多く、かつ根本的なものが多く含まれる暗黙知的な方法が収集のスコープには入りにくいとしたら、そもそも、その収集活動そのものの在り方を見直さなくてはいけないのではないか。

P.S.
ついでに書いておけば、このへんの話がわからないと、結局、なんで人間中心設計プロセスなるものがインタラクティブシステムのデザインにおいて必要なのかがわからないし、いま人間中心設計の手法として知られている各手法の射程距離とその限界、そして、その外側がわからないのではないかと思います。

 

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