こうした傾向は以前からあって、昔のエントリーでも「粘り強さ、継続性」とか「アウトプット速度」とか「PR下手で損してる」とか「」なんていうフレーズがタイトルに入っていると人気は得やすいようです。
これらの問題は単に個人レベルだけの問題なの?
人気はないよりあったほうが書くモチベーションも上がるが、かといって人気を得るためにそうしたエントリーばかりを書こうという風には僕自身の関心が向かない。一方で、こうしたライフハック系と呼べばいいのか、自己啓発系と呼べばいいのか、わからないが、仕事の能力を高めよう的なエントリーばかりに人気が集まるのはちょっと気持ちが悪くも感じています。もちろん、自分の苦手なところを認識したら克服する努力をしてみるというのは悪いことではありません。でも、先に挙げたようなキーワード、キーフレーズに関することに、こんなにも多くの人が「苦手」を感じているのだとしたら、それは単に個人レベルの問題ではなくて、もはや社会的問題だと捉えた方がよいのではないかと思うのです。
そう。地球資源の問題が社会的問題であるのと同様に、社会的レベルでの人的資源の不足という問題として社会生態学的に捉える必要があるのではないかと思うのです。
社会環境にマイナスに働く力はないの?
読解力にしても行動力しても粘り強さにしてもアウトプットの速度にしても、昔からそれって問題になっていたんだっけ?というところから、かつては問題ではなかったとしたら何故いまそれが問題になっているのか、それは昔の人はちゃんとできていたいのにいまできない人が多いのか、それとも、単に昔はそうした力はすくなくとも万人には求められなかったのか。そういう社会全体的な視点で、人的資源の問題を捉えていかないと、いくら個人ベースで頑張ってみても、根本的な解決にはならないのではないかと感じます。いまの時代、あらゆる企業組織や学校などの教育機関で、いわゆる学問とは別の人間的能力をいかに鍛えるかは常に課題になっていることでしょう。でも、そこでいくら教育の方法を考え、そこで考え出された立派な方法を提供したところで、社会環境的にその逆にマイナス方向に働く力が常に存在しているのだとしたら、その努力も決して有効には機能しきれないはずです。プラスよりマイナスのほうが大きかったら尚更です。
その意味で、教育の方法を考えると同時に、社会環境における生態学的影響関係のなかで何が教育上の視点でみてマイナスに働く可能性があるのか、その力学をある程度、把握しておかないと教育する努力そのものが無駄に終わってしまう可能性があるのではないでしょうか。
社会環境が人間の能力やスキルにどう影響を与えているかを問う
どう考えても人は教育の場でばかり学ぶわけではないし、昔の人びとは今のように人工的な社会や人間関係のなかだけで学んでいたわけでもないと思うのです。人工的な社会や人間関係のほかにも人びとが学ばざるを得ない暮らしの環境がかつてはあった。そうした環境を失った現在の状況で人間の能力やスキルなどの人的資源はいかに影響を受け、そこでのマイナスを補うためには何をしていかなくてはいけないかを問う必要があるのでは?と思うんです。そういうことを問わずに、最近の人はすぐに答えばかりを求めたがるとか、忍耐力や積極性が足りないとかいっても仕方がありません。それは教育の問題である以上にさまざまなレベルでの社会環境や社会における行動と人間との関係性が著しく変わってしまっているのだから、個人レベルや世代間的な非難をしたところではじまらないし、何もよくなってはいきません。
包括的な視点で物事をとらえる資質
ここでは単にプラスだとかマイナスだとかがあたかもあらかじめ決まっているかのように書いていますが、実際何が社会においてプラスでありマイナスなのかを考えるところからのスタートなのでしょう。通常のエコロジカルな視点が人類が地球上でこの先も生きていく上でどういう世界をよしとするのかから考えたうえで守るべきものの優先度も考慮しつつ生態学的な包括的な視点で捉えることが重要なように、人間のスキルや能力といった人的資源について考える場合もこの先の人類の未来において、人びとがどんな風に能力を発揮しどんな社会をつくり、何を幸せと感じて生きるかといったことも考えたうえで、教育的に何がプラスでマイナスなのか、そして社会における物的要因、精神的要因がそれぞれどのように関係しあっているのかを包括的に捉える視点も必要なのではないかと思います。
例えば、天才的なエンジニア、建築家として知られるバックミンスター・フラーは『宇宙船地球号操縦マニュアル』で、富を、
代謝的、超物質的再生に関して、物質的に規定されたある時間と空間の解放レベルを維持するために、私たちがある数の人間のために具体的に準備できた未来の日数バックミンスター・フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』
だと定義しています。
フラーは、この富を増やすためには、それぞれが専門領域に固執するのではなく、包括的な視点で物事をとらえる資質をそれぞれが身につけていく必要があると説いています。
そういう視点に立ってみると人材の教育や育成、あるいは個人の自己啓発やスキルのアップなどを考える際でも、この富の定義における「超物質的再生」に値するであろう人間の能力といった資源のうち、何を重視し、具体的にそれをどう鍛えていくかとどうマイナスに作用する影響から守るかという両面における包括的な視点で、人材の育成や教育、はたまたもっとベーシックな暮らしのなかでの個々人の感受性や思考力の養成というものをいかに行い、行える環境をつくっていくかを考える必要があるんじゃないかと感じるんですね。そうしないと、すべてが部分的な努力にしかならないのではという気がします。
人的資源の生態学的な問題解決
つまり、いわゆる環境問題や地球資源の問題を考えるのと同様の生態学的な包括的な視点が、人間の能力やスキルのような人的資源の問題を考える際にも必要なんじゃないか、と。いわゆる認知科学や人類学のような学問の分野、それに僕自身も専門にしているような人間中心設計の分野、あるいは、そもそも人間と環境の関係性を生態学的に捉えているアフォーダンス理論、はたまた他にも人間と社会の関係や生き方、ライフスタイルなどを考える分野の人びとが集まって、こうした生態学的視点での人的資源の未来について考えていくことが必要なのでは、と感じたわけです。
僕が最近、民俗学や日本の歴史、白川静さんらの仕事に代表される視覚表現や言語表現における呪的な表現について関心を抱いているのも結局は、人間の知覚や感覚、認識や発想などと自然環境や社会環境との関係に関する理解や思考を深めたいと考えているからです。
デザインという問題を含め、近代以降はあまりに物質的な意味での実験、改善、プロジェクトばかりが優先されてきましたが、今後はフラーが「超物質的再生」と呼ぶ領域に関しても同じように研究を進め、具体的な実験、プロジェクトを推進していかなくてはならないのではないでしょうか。そうでなくては人間は自分たちがつくりだした物質的、社会的システムに自らの身体的資源を枯渇させられてしまうのではないかと感じるのです。
とはいえ、これを単なる社会の間違い探しという風に読んだのなら、その感性からしてすでにおかしい。すべてを環境のせいにするのではなく、個々人が努力して自分を鍛えなきゃいけないのはいうまでもありませんから。
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