デザインの余白

物を観るというのは、なんて深いんだろうと感じます。普段から多くの物を観ようと心掛けていると、どんどん良く物が観えるようになってきます。



特に民藝の品のように手作りであるがゆえに、1点1点が違う場合には、お店で同じ商品を選ぶ場合でも、どれがよいかと選ぶ楽しみが加わります。
ちょっと前までは、お店で買う時に良いなと思って買った物が使っているうちに、ちょっと違うなという違和感が出てきてしまったんですが、最近はそれが減ってきた。使うときに良いなと感じるだろう物をお店で選ぶことができるようになってきました。まだまだ自分の気に入る物を選びきれるようにはなってませんが、それでも観て使った数を重ねるほど、観る目が肥えてきたのかななんて思います。

これはもちろん、人間が作った物には限らないですよね。そもそも木や石はみんな違う形をしている。
今日、小石川後楽園に行って梅まつりを観てきましたが、とうぜん、梅の木はぜんぶ違う。園内で販売していたボケや梅の盆栽にしても、この木いいなと思うものもあればそうでないのもある。今日はこれだと思うのがなくて買いませんでしたが、買わなかったのもウチにある4つの盆栽を毎日水をあげながら観ていて、なんとなく自分の好みがわかってきたからなんだろうと思います。

デザインと民藝

こうした点は、基本的にどれを選んでも同じな工業製品とは違うところです。

僕は、民藝の器などはたいてい、器物などを買う場合は2枚セットで買うことが多いのですが、使ってるうちに、そのうち一方のほうが好きだなと思えたりする。そういう楽しみはどれでも同じな工業製品では味わえない点です。
工業製品は、どれを選んでも同じなので失敗はしなくて済むのでしょうけど、その代わり選ぶ楽しさもなくなりますし、失敗というリスクがなければ観る目が養われることもないのかなと思います。

すこし前に発売された雑誌ですが、『Discover Japan2』にこんな記事がありました。



ここに鳥取、中井窯で焼かれた2枚の皿がある。1枚は、かつて鳥取、因久山の窯で生まれ、柳宗悦がその美しさを見出した3色染め分け皿。(中略)異なる色の釉薬を掛け分けるのだが、境界線には互いの色が混じり合い、にじんでいる。
そして、もう1枚は、柳宗理がこの伝統的な民藝の皿をリデザインした物。釉薬が混じる、この境界線が極力にじまないことを望み、染め分けであることを明快にして、中央のラインがくっきり出るように陶工に指示したのだ。
「柳宗理をきっかけに民藝に興味を持ったあなたへ。」『Discover Japan2』

僕はこの記事の2枚並んだ皿をみて、民藝の物のほうがよいなと感じました。釉薬の混ざりだけでなく、縁に釉薬をかけない場所を残した柳宗理さんのデザインの物はすこしきっちりしぎた感じもするのに比べ、民藝の品はもうすこし自然な感じが残っている。自分で使うなら民藝のほうだなと感じるのです。そのほうが自分の暮らしのなかに馴染む気がするからです。

ただ、それは比較して場合であって、単独でみれば、柳宗理さんがデザインしたものもいいと思う。宗理さんがデザインして陶工に細かい指示を出したとしても、それはまだ工業製品ではなく手作りの品ですから、やっぱり1枚1枚の違いは残っているはずです。実際にお店に並んでいたら、選ぶ楽しさはあるだろうなと感じます。

デザインの余白

僕はデザインにもこういう余白というか、遊びが残っていてもいいなと思います。きっちり隅から隅までデザインしてしまうのではなく、職人の手仕事による違いや素材自体がもつ違い(木目や陶器の火の入り具合など)を許容するようなところがあってもいいなと思います。

昔から、書でも画でも能のような舞台でも、日本の文化って余白をうまく使ってきたんじゃないかなと思います。引き算をして、削いで削いで、余白=間を作った。そういう余白がいまのデザインにもあってもいいかなと思います。余白がない画一的な工業製品って、どうも自分で感じることができずに答えばかり求めてしまういまの感覚にダブるんですよね。まさに行間や余白や間を感じる力が失われてしまっていることの象徴のように感じてしまいます。



もちろん、工業製品に余白がないというのはデザインの問題というだけではなくて、生産方法の問題でもあります。素材自体が人工的なものでそれを機械生産してしまったら、どうしても出来上がりは画一的なものになってしまうでしょう。デザインが自ら余白を許容するとしたら、1点1点が違うものになるような余白を生み出すための生産方法も含めてデザインしなくてはいけません。

人びとのインサイトをマーケティングは捉えてきれているか

実際、中古加工されたジーンズなど服飾の分野では、生産工程に手作業による加工が含まれていたりします。その分、値段が高くなっても、それに魅了された人はそちらを選びます。ナチュラル系の家具などの人気も同様の感覚によるものではないでしょうか。好んで中古家具やアンティークに走るのも似たような感覚ではないでしょうか。

別に僕が好きな民藝でなくても、そうした手仕事が生みだす余白をもった品物に対する欲求は、いまの人のなかにもちゃんと残っている。けれど、物をつくる側のデザイナーのほうにそうした人びとの欲求にどれだけ応える力があるか。

まぁ、これはデザインというより、顧客のインサイトを捉える役目のマーケティングのほうに問題があるのかもしれませんが(僕自身はマーケティングもデザインの仕事の一部だと思っているので、区別する必要はないんですけど、いちお一般的な区別に基づきマーケティングと書いてます)。

明らかにいまのマーケティングって自分たちが提供できるはずの価値のスコープを自ら狭くしてしまっているんじゃないかという感じがします。いろいろ理由はあると思いますが、その理由の1つに自分自身のライフスタイルのあるべき姿に対する観る目を養えてないってこともあるんじゃないんでしょうか。他人に何かを提案しようというのなら、まずは自分自身が提案できるくらい物を知ってるの?ってことをちゃんと自問してみることが大事なんじゃないですかね。人びとが意識していないようなインサイト、人と物と暮らしと感情の関係を捉えて、それを形にして提案するのがマーケティングの仕事だと思うけど、そんなことがほとんどできていない。

この話は1年半以上前に書いた「丁寧に時間と心がかけられた仕事をするためのワークスタイル」というエントリーにもリンクしています。そして、そこで引用したこんな言葉とも。

たとえば安売り家具屋の店頭に並ぶ、カラーボックスのような本棚。化粧板の仕上げは側面まで。裏面はベニア貼りの彼らは。「裏は見えないからいいでしょ?」というメッセージを、語るともなく語っている。(中略)やたらに広告頁の多い雑誌。10分程度の内容を一時間枠に水増ししたテレビ番組、などなど。様々な仕事が「こんなもんでいいでしょ」という、人々を軽くあつかったメッセージを体現している。

観る目がない客に売るのは大変ですけど、客の観る目そのものを肥やすような流れを作れるものづくりができれば、表層的なマーケティングメッセージのみで購買欲求だけを喚起するようなことをしなくてもよくなると思うんですけどね。もうすこし物自体の力で売ることができるようになるんじゃないか、と。

そういう大きなサイクルで人と物の関係、暮らしや文化との関係を含めてマーケティングを捉えることができないところに、物が売れない1つの要因があるんじゃないか。そんな気がします。いまのマーケティングって明らかに自分たちで物が売れない状況をつくる方向に向かっていってしまっているんじゃないでしょうか。そこに気づかないとヤバイんじゃないかな、と。

  

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