創ったものにて何をなさろうとしておりますか?

『へうげもの』はやっぱりいいなー。
何より織部に対する利休がいい。



たとえば、これ。

あなたは世に何を広めたいのですか?
創ったものにて何をなさろうとしておりますか?
山田芳裕『へうげもの 8服』

会心の作・染付志野茶碗を師・利休に見せた際、織部が利休にいわれたことばです。

この前の台詞で、利休は「ついにここまできたかと…」と、志野茶碗に染付をした器の風情を褒めつつ、すぐに「されど」と切り返し「あなたの全てがこの器に乗り移っているとは思えませぬ」という。
そのあとに続くのがこのことばなんですね。

織部にしてみれば、これぞと思った会心の作だったわけです。利休の教えどおり、創意に創意を尽くして創り上げたオリジナルの器です。これなら師に見せてもよいと思った作だったわけです。
もし、あなたが織部の立場だったらどうですか?

社会変革としての茶の湯

創ったもので何をなそうとするのか。
これはデザインをする上でも基本だと思うのです。

何を創るのかではなく、何を為すために創るのか。
ましてや、プロダクトデザインだとかグラフィックデザインだとか情報デザインだとかと専門領域を細分化して、互いにその枠のなかにひきこもる前に、領域横断的にデザインは何を為すべきかを問い、そのベーシックでラジカルな基礎デザイン学の地平において、利休が織部に問うた問いに答えを見いだしていかなくてはいけないはずです。

先日紹介した『生とデザイン―かたちの詩学1』で向井周太郎さんは、モダンデザインがもっていた人びとの暮らしと仕事の両面からみた社会改革を行うという理念はすでに失われ、現代では「デザインを社会的なものとして捉える視点を欠落させたまま、生活の真の豊かさの創造という課題からはあまりに遠く隔たって発展を遂げてしまっています」と指摘しています。

桃山時代の利休や織部が志した茶の湯には、そうした社会変革の面があったのだろうと、『へうげもの』を読んでいると感じます。

そして、それゆえに先の利休のことばになる。
「あなたは世に何を広めたいのですか? 創ったものにて何をなさろうとしておりますか?」と。

案ずることと行うことは違う

とはいえ、自身が会心の作だと思った器を師に見せて、それを言われた織部のほうはつらい。
もちろん、会心の作だったからこそ、利休はそう言ったのでしょうけど。

さらにそんな織部に追い打ちをかける利休のことばはこれ。

それがわからずば…
創造する意味などなく…
人々の心を打つことはないでしょう…
山田芳裕『へうげもの 8服』

社会を変革するには、まず社会を構成する人びとの心に届かなくてはなりません。人びとの心に届かない物が社会を変えていけるはずがない。生活の真の豊かさの創造という社会的課題のためには、そうした物を生み出す必要がある。

別の箇所で利休がいっていますが、どんな理想も「実現せねばただの絵に描いた餅…案ずることと行うことは違う」のであって、そのためには理念を物として見て触れられる形にする必要がある。それが本来、デザインの課題であって、単に「会心の作」を創り上げればよいというものではない。

己を見つめ直しなされ

どんなヴィジョンを社会に広めたいのか?
そして、社会において何を為すため、実現するために、何を創るのか?

古代ギリシャではこのポエジーの語源であるポイエーシスは広く創造や制作を意味して、世界を創造する行為、世界形成を表わすものでした。
私は、デザインとは、本来そのポイエーシスというような意味での詩的営為であるような世界でありたいと思うのです。

世界形成、社会変革のポイエーシスとしての詩的営為であるデザイン。

まぁ、社会といっても他人事ではなく自分も含む社会ですね。まずは自分がどう生き、どう暮らし、自分の生命をどう扱うかなんでしょうね。
だって、自分のこともちゃんと考えられないのに他人を含む社会のことがちゃんとできるわけがない。むしろ、いまのデザインは自分も使いたくないような物をつくってるんじゃないかと、そんな気がします。

自分の生命、自分の暮らし、自分の生き方に合った物とは何か? まずは、そこをきちんと見つめ直していくことがいまのデザインの課題なのではないかと思います。
余計なものを削ぎ落とし、それでいて実現しようというヴィジョンにおいては自由に遊びをもって。

利休も織部に言っています。

己を見つめ直しなされ
見つめて…削いで…最後に残ったものこそ…
古織好みとして真のわび数奇が扉を開きましょう
山田芳裕『へうげもの 8服』

と。

さて、この続きはマンガで。

  

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