原研哉さんは本書の著者・向井周太郎さんが創設した武蔵野美術大学の基礎デザイン学科で大学と大学院の6年間を学んでいます。
この本を読むと、僕が原さんのことばを読んで感じるものがあったものの原像が、すでに師である向井さんのことばとしてここに書かれているのに気がつきます。
例えば、阿部雅世さんとの対談『なぜデザインなのか。』のなかで、原さんは、直立二足歩行をはじめた人間が「空いた手で棍棒を持つのは自然だけれども、たとえば川に行けば、2つの手を合わせて水をすくって飲んだはず」といい、「棍棒」と「器」に道具の2つの始原をみていますが、この考え方もすでに向井さんのなかにも見出せます。
機械は、無の有用性を使いはたし、空隙をうめつくすことで高密化へと向かって発展をとげていくのであり、空虚な空間ゆえに意味をもつ器さえメカネの振舞いに従属する包装と化していく。向井周太郎「椅子の夢想、夢想の椅子」『生とデザイン―かたちの詩学1』
向井さんは、無の道具、有の道具と言い方をしていて、前者に器、後者にやじりや斧をあげています。
その上で現代の機械社会は有の道具が無の道具の領域を侵犯すると同時に、「メカネの価値観においては、無や空虚な空間そのものの生の価値が見失われ、いわばデッド・スペース(死んでいる空間)はすべて使いはたすという思想を生みだしていく」と指摘しています。東京ではどんな小さな空地でさえもコンクリートを敷かれた駐車場に変えられる。すべてが人間にとっての有に変換されるが、一方でコンクリートの下に生の多様性は均一化されて失われます。
この向井さんの有と無の道具に、原さんの棍棒と器のイメージは重なってくる。ほかにもこの本を読んでいると、そうしたイメージの重なりが実に多く見つかります。
だからといって、僕はそれを原さんのオリジナリティを否定するものだとは思わない。むしろ、僕はオリジナリティなんてものが嫌いだし、向井さんと原さんのことばの重なりも、昨日の「型と形」で書いたような師から弟子への型の継承とみます。型の継承にはかならず「ゆらぎ」が見いだせるように、向井さんと原さんのあいだにも「ゆらぎ」がある。その「ゆらぎ」のほうがオリジナリティなんかよりいまやよっぽど重要なものとなっていると感じます。
型を受け継ぐ
向井さん自身、ゆらぎを孕んだ型をその師から継承しているように感じます。ひとつには『ふすま―文化のランドスケープ』の共著者に位置づけされている、父であり腕のよい表具師であった向井一太郎さんの型を。
そして、もうひとつには、この本ではたびたび言及されるバウハウス的なモダンデザインというプロジェクトであり、直接的にはすでに「基礎デザイン学」というエントリーで紹介したように、自身が学んだ、バウハウス出身のマックス・ビルが初代校長をつとめたウルム造形大学のデザイン教育の理念の型を。
向井さん自身は、そのウルム造形大学が継承したバウハウスの理念を次のようにまとめています。
その理念は、近代化のなかでそれぞれが互いに孤立し具体的な生活世界とのきずなを失った芸術活動を、再び〈建築〉という生の営み全体の場へ向けて結集し、その目標のもとに諸芸術と職人的手工作など一切の造形活動の総合化を再建しようという理想の提起であった。向井周太郎「バウハウス」『生とデザイン―かたちの詩学1』
そうした理念を有したバウハウスは一般的な意味の学校とは異なり、「ひとつの新しい時代の工匠たちの社会共同体」であったし、「教えるものと学ぶものとの関係もマイスター(親方)とレーアリング(徒弟)との共同作業を志向していた」のだと向井さんは書いています。
こうした親方と徒弟の共同作業をバウハウスにきちんと見出すことができたのも、向井さん自身が『ふすま―文化のランドスケープ』で、父・一太郎さんが「職人を育成する側の考え方にも同じことがいえます。弟子として若い人を雇っても、立派な職人に育てようとする考える家が少なくなったことです。単に手が足りないのを補うためなんです」と語っているような、単に人手不足を補うのとは違った関係性のなかにある師弟関係を重視する家で育ったこととも無関係ではないのでしょう。
教育の場のリデザイン
単に形式知化された知識を学ぶのではなく、そうしたことばにならない型を受け継ぐためには、教育の在り方そのものを一から見直していかないといけません。それは学校という場だけの話ではなく、仕事場としての企業でもそうでしょうし、暮らしの場である家庭にもいえることだと思います。向井さんは、デザインを「あるべき生活世界の形成である」と捉えています。その場合の「生」とは「いのち(生命)」「くらし(生活)「生きかた(人生)」を含む、生の全体性です。
そのような生の全体性を相手にし、具体的に「あるべき生活世界」の理念を提示し実現する活動をデザインととらえ、そのための教育・研究に関する学問を基礎デザイン学としてカリキュラム化した。原さんもそこで学んでいる。
そこではおそらくバウハウスでも重視された手による作業が重視されたのでしょう。
手によって作業過程全体をとらえることは、対象全体と直接に触れ合う身体経験であり、前言語的な形態知による統合的把握であるといってよい。それは生命的把握だともいいかえられよう。向井周太郎「バウハウス」『生とデザイン―かたちの詩学1』
前言語的な把握。僕は人間には「わかる力」と「感じる力」があると考えています。現代はどうも前者の知識に偏りがちですが、最近のほとんどのエントリーがその問題を扱っているとおりで、後者の身体的把握の力ももう一度見直していかなくてはいけないと感じています。
そして、後者の力を学ぶ場の必要性をすごく感じている。それがデザインの基礎力であり、生きていく上での基盤をなし、同時にその基盤を形成していくものとなるのだから。
本来あるべき教育の場とは、時代の理念を標榜し自治と自由にもとづく創造的な研究共同体であり、ひとつの形成のプロセスであり、新たな意味発生の現場である。そうして、それは文明の質を問う文化の形成装置であって、生成するひとつの世界なのだ。向井周太郎「バウハウス」『生とデザイン―かたちの詩学1』
分析的な言語によって「わかる」をいくら増やしたところで文化の形成には結びつきません。それは製造することはできても生成することはできないのだから。
詩的なことば
ことばで記述できるもの、デジタルに表現可能なものでは型の継承はできません。いま必要なのは、適切な「ゆらぎ」を有した型の継承による、類似者の再帰、多様さの生成がおこるしくみなのではないでしょうか。この本は「かたちの詩学」と題されています。
ただ、現在は、形が詩を奪われた時代です。
昨日の「型と形」でも書いたように、型を原像としてそこに「ち(霊)」が吹き込まれることで生成する形が失われ、魂のないデジタルな構造だけが反復的に複製され続けています。「デザインと文化、あるいは、フォルムとファンクション」でも紹介したように向井さんは、モダンデザインの歴史はいつしかバウハウスの理念を忘れ、そこで生みだされた手法だけを用いて商業主義に走ったために、文化的な多様性、生命的多様性を破壊し、そのあげくに自ら単なる製品のお化粧直しの座に出したことを指摘しています。
もはやデザインはわかりやすい欲求を喚起するだけの「メカネの振舞いに従属する包装」と化してしまっています。
それはデザインによって生みだされた物だけのことではありません。ことばについても同じことがいえると思います。ことばもまた単なるわかりやすさだけが重視され、文化的多様性や詩的な多義性が排除されてしまっている。
でも、僕は、理解しやすいよう記述されたことばだけでなく、ときには、ゆらぎや多義性をもった詩的なことばもあってよいと思います。もちろん、それは教育の場である、学校や職場や家庭においてもです。詩的なことばからしか学びとれない型というのがあるのだから。
そうした詩的なことばが人から人へ重ね連ねられていくところに、かつてのおもかげうつろう日本という方法が再び立ち上がってくるのではないかと思うから。
関連エントリー
- ふすま―文化のランドスケープ/向井一太郎、向井周太郎
- なぜデザインなのか。/原研哉、阿部雅世
- 基礎デザイン学
- デザインと文化、あるいは、フォルムとファンクション
- 型と形
- デザインと読解力(文章に書かれたこと/書かれていないことを読み解く)
- 内省する力(第2回ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ1日目)
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