僕はこの「型」がいまひとつわからなかった。
でも、これを読んではじめて納得がいったんです。
「根源の形象」と「個々の形象」との関係は日本語で古来「かた」と「かたち」の区別によって言い表されている。向井周太郎「原像の崩壊」『デザインの原像―かたちの詩学2』
そうか。型は「おもかげ」なんだな、と。
おもかげとしての型
梅の季節です。うちの盆栽の梅はまだ咲きませんが、近所の家の梅は白梅、紅梅ともきれいに咲いている。それは盆栽の梅ではなく、庭に植えられた梅の木です。僕の家の盆栽の梅も、近所の家の庭の梅も、僕は同じ「梅」として認識している。たとえ、花を咲かせていなくても、梅の木と桜の木を間違えることはない。梅の木には、梅の木のおもかげがある。もちろん、梅の花ならその姿だけでなく、その香りにも梅のおもかげをもっています。
しかし、実際には僕のうちの盆栽の梅と、近所の家の庭の梅ではまったく違う形をしている。まず大きさからしてぜんぜん違います。なのに、僕は両者を梅として認識することができる。桜ではなく梅として。
梅だけではなく、じゃがいもはじゃがいもとして、玉ねぎは玉ねぎとして、そのおもかげを通して僕らは個別の際に惑わされることなく類を認識することができます。
同じことが人間の顔を認識する際でもいえる。僕らは2人の異なる知人の顔を見分けることができる。顔の向きがどちらを向いていようと、数年合わずにいて相手が年を重ねたとしても、その人の顔を見分けることができる。もしかしたら、その人の両親に会っても、あぁ、確かにご両親だと感じることができるかもしれない。そこには知人のおもかげがあるから。
でも、このおもかげというのは決して要素には還元できません。目がAという形をしていて、鼻がBという形状をしているという、個別の要素の特徴の積み重ねがおもかげになるわけではない。そこには言語ではうまく言い表せない類似がある。
型とはこのおもかげなんだと思います。
類似者の再帰
世阿弥が観阿弥の口述を記録し編集した芸能論『風姿花伝』では、この型を学ぶことが重視されています。それは「物学条条」の章で語られる。物学はものまねです。学(まな)ぶはもともと真似(まね)ぶだったといわれています。能は、物学によって、女にもなり老人にもなり、修羅にも神にも鬼にもなる。そこに花が生まれる。『風姿花伝』は俗に「花伝書」というくらいで能の花について伝えることがコンセプトです。
その能の花は物学の稽古によって咲く。稽古、すなわち、古(いにしえ)を稽(かむがへ)ることです。「稽古照今」という熟語もある。古を考え今に照らす。これはデザインにも通じることだと僕は捉えています。温故知新でもいいですが、古を知らずして、なぜ今をつくれるのかと思う。
ところで、能でもそうなのでしょうが、芸能の稽古においては師の舞姿や謡い方などを真似て、その型を体得していきます。
けれど、よく考えれば、師の舞も謡いも決して完全に同じものを反復できているわけではありません。梅の木が一本一本違うのと同様に、舞も謡いもその都度わずかながら変化するはずです。それでも弟子はそこに師の舞、謡いの型=おもかげを見、それを体得していく。
われわれはその都度かならずしも同一ではない師の表出する形象を不断の反復と接触とによってひとつの形として肌を通じて肉体の奥深くに体得していくのである。向井周太郎「原像の崩壊」『デザインの原像―かたちの詩学2』
向井さんはそれは機械生産やデジタルなコピーの「同一者の反復的な回帰」に対して、「類似者の再帰」と呼んでいます。
オリジナルがあってそれをコピーするというよりは、真似て類似の形を再帰させることで、そこに型を感じさせる。松岡正剛さんが『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』で日本という方法を一途で多様と呼んだのもそれを踏まえるとよくわかります。
型と形
ここで最初の「型」と「形」の話に戻りましょう。向井さんは「形」ということばの「ち」を「いのち」や「いかづち(雷)」「をろち(蛇)」の「ち」同様の、自然の激しい根源的な力をしめす古語としての「ち(霊)」ではないかという説をとります。「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」などと詠われる際の、神にかかる枕詞である「ちはやぶる」の「ち」も同根です。
おもかげ、そして、母型としての「型」に、自然の根源的な力=霊を宿したものが「形」というわけです。おもかげが霊を宿せば個体となる。それゆえ、型=根源の形象、形=個々の形象という区別となるわけです。
『デザイン12の扉―』という本では、利休の茶碗をつくったことで知られる楽焼=長次郎の15代目となる樂吉左衛門さんがこんな風にいっています。
身体に根差した具体性が抽象の度合を深めると、最後は型に至るのではないか。そんなふうに私は思います。それは、日本型の普遍化とも言えますが、その意味構造は逆に無化され、型だけが残るといったプロセスを経るのが、西欧の知の普遍化とは大いに異なるように思います。樂吉左衛門「日本文化が生まれる場と条件」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』
共通の意味を重視する西洋に対して、日本は共通のおもかげを重視してきた。僕はそのことが手仕事の重視やその発展にも通じていたのではないかと感じます。手仕事であれば、その都度、違う形が生まれてくる。ただ、それは「類似者の再帰」であって、僕らはそれを同じものとして認識する。ただ、そのなかでも個別の差異にもこだわるから、茶人があまたの雑器から後に大名物ともなる一品を選びとることもある。
同一者の反復的な回帰
それが機械生産になると「類似者の再帰」ではなく「同一者の反復的な回帰」となる。オリジナルとコピーという関係や、デジタルであればもはやオリジナルという概念さえも消失した同一者の反復だけになる。そこにはおもかげとしての型もなければ、「ち(霊)」を宿した形もない。向井さんは喪失した型や形に対して、それを「構造」と呼ぶ。
そのような形象のもつ濃密な意味は決して言語的には明示できない。数学という言語をもってしてもその近似の構造には接近できるが、濃密な意味を包含するその多義性は失われ形象そのものが失われてしまう。したがって近似の構造と類似の形象とは本質的にちがうのであるが、近代化とはこの近似の構造の侵略という近代知の暴力によってこの言語的に明示できない「ゆらぐ形象」が生の形が解体されてゆく過程のことなのである。向井周太郎「原像の崩壊」『デザインの原像―かたちの詩学2』
生の形象は、近代化によって類似の再帰から、数学的な近似的構造の反復に置き換えられ、その形象自体を喪失する。そこでは「知る力」が「観る力」にとって代わるし、模様を生む力も衰えていく。何より多義性、多様さというものが失われ、世界の形象が単調でつまらないもので埋め尽くされていくと思うのです。そうした世界で僕らはいかに感受性を日々鍛え挙げていくことができるのか。
デザインのリデザイン
ただ、モダンデザインが現代のようなおもかげを喪失した構造の世界を意図して目指したかというとそうではないことが、向井さんの2冊に分冊された『かたちの詩学』という本を読むとわかる。モダンデザインの代表として語られるバウハウスでさえも手仕事=クラフトマンシップを最も重視しており、その理念において「芸術と技術の統合」を目指したのだから。だが、その理念が失われ、モダンデザインが生みだした技術だけがまさに「ち(霊)」を失った状態で反復される。おもかげは失われ、すべてが物差しで測れるような価値しかもたない構造となる。その世界ではなかなか、ちはやぶる神にお目にかかることはない。
いまやデザインは形象を欠き、濃密な意味からは遠く離れた近似構造だけを反復しているし、自分が形に関する仕事をしていると信じているデザイナー自身さえもがそこにすでに形象が失われていることに気付かずにいる。なんという感覚の麻痺なのでしょう。
バウハウスがもっていた理念を継承し、すでに終焉したデザインそのものを、現在においてリデザインしようとしているのが向井さんが創設した基礎デザイン学なのだろうと感じます。
失った形象への感覚を取り戻すためにも、僕らはデザインの基礎力についてもう一度考えるべき時期なのではないでしょうか。
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