でも、最近、それって実は重要だったんだなということに気がつきました。
それって文章に書かれた状況を俯瞰しながら登場人物の行動とその背景にあるものを構造的に理解するということなのだから。

そう。それはデザイン思考でも「利用状況の把握」という点では欠かせないスキルです。デザインサーベイを行う際には5W1Hで利用状況を捉え明記するという作業が必要になる。
誰が、いつ、どこで、何を、どのように行ったのか?
また、それは何故そうしたのか?
特に何故そうしたのかという問いは行動とその背景にあるものの菅家精を俯瞰的に包括的に捉える上で大事な問いであり、デザインを考えるうえでも欠かせない問いです。
あるべき生活世界の形成するためのステップ
基礎デザイン学的にも、デザインを「あるべき生活世界の形成である」と捉えれば、具体的な物を作りだす前の段階として、そもそも人びとが生きる生活世界をつかまえる力が不可欠となります。デザインが、人間の生命、生存の基盤や安全、日々の生活・暮し方・ライフスタイル、生き方や仕事や社会的役割などを含めた生きる方法、生きていく上での人々の関係性やコミュニケーション、生きる場としての社会形成を含めた、人の誕生から死までの生のプロセス全体に対して、あるべき生活世界を形成することだとすれば、特定のデザインプロジェクトを実践するためには、特定の生のプロセスに関して少なくとも次のステップが必要でしょう。
- 特定の生のプロセスについて現状を把握する
- 特定の生のプロセスに関するあるべき姿を想像する
- あるべき姿と現状のギャップを抽出する
- ギャップを埋めるための具体的な方法を検討し実現に向けた計画を作成する
「ISO13407:人間中心設計プロセス」の各段階との関係性も含めて、図にすると、こんな感じ。

このステップにおいて、最初の「特定の生のプロセスについて現状を把握する」際には、デザインサーベイによって、特定の生のプロセスについての人びとの行動やそれが行われる環境・状況の理解という作業が行われることになる。
要素の抽出と要素の関係性の把握
その際、デザインに関わるすべてのメンバーがすべての調査に関わるということは非現実的だから、必ず人びとの暮らす現状を記録した調査データに触れることになるでしょう。ビデオによる記録をみるという場合もあると思いますが、多くは文章で書かれた記録から、人びとの暮らしの現状を理解するということになる。
その文章を読む際にそこに記述の形で登場する人びとの行った言動に対して「何故そう思ったのか」、「どうして、そんなことをしたのか」ということを積極的に問い、読み説く力がなければ、デザインの基礎の最初のステップから躓くことになる。躓いてもかまわないのですが、躓いたまま、そのまま起き上がれず、なんとなく次のステップに移ってしまえば、あとの作業はグダグダになることは避けられません。
- 誰が、いつ、どこで、何を、どのように行ったのか? をまずは把握した上で、(要素の抽出)
- それが、何故そういう形で行われたのか? と問うことが必要です。(要素間の関係性の俯瞰的視点での整理)
こうした2段階のステップで、調査結果として文章による記述の形に落とされた人びとの暮らしの現状から、人びとの行為とその状況、そして行為と状況の関係性を読み解く必要があるのです。
その関係性を理解すれば、どの要素をどう変化させれば、人びとの生のプロセスにどんな変化をもたらすことができるかが予測できるようになる。それがデザインの最初のステップだと思います。
ワークモデル分析とKJ法
僕はそのデザインサーベイの結果の分析作業を、ワークモデル分析とKJ法を用いて行っています。- 個別の対象者を分析する際には、ワークモデル分析を用い、
- 何かしらの類似をもとにグループ化した複数の対象者を分析する際には、KJ法を用いる、
といった使い分けをしています。
たいていはワークモデル分析で個別の分析を行った上で、分析によって見えてきた対象者間の類似をもとに対象者をグループ化し、そのグループごとにKJ法による統合的な行動モデルの分析を行います。

ワークモデル分析:文章に記述された人間の行動を読み取り図式化
便宜的に行動モデルの分析と書いていますが、実際は、行動そのものだけに着目するわけではなくて、行動の結果として生じた感情や、行動が行われる背景となる物理的な環境や社会的・経済的・精神的な状況といったものを分析の対象にします。
ワークモデル分析でも、KJ法でも、手元にあるデータから5W1Hの視点で俯瞰的に行動の状況を整理し、さらにそれを構造化することで、データとしては記述されていない行動の背景を「何故?」「どうして?」の問いを重ねながら考察していきます。

KJ法:複数の人の情報を統合する形で共通している行動のモデルを分析
自分の読解力に問題はないかと自問する
こうした意味で、読解力というのはデザインをする上での基礎体力的なものだと感じています。ただ、こういう作業ができない人が意外に多いんですね。昨日の「ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ」の参加者でも何人かいたのかなと思います。
例えば、文章の読解力だけでなくて、他人が口頭で話した言葉の理解力でもおなじです。昨日のワークショップでも、他人が口頭でシナリオを読んでくれているのに、その内容をKJ法に使うポストイットに要約して記述することができない人がいました。しかも要約できない自分を問題にするのではなく「もっと整理して読んでくれ」という。それは違いますと注意しました。他人の話を要約できないあなたに問題がある、と。グループ作業なのですから役割分担が大事です。ひとりが完全な受け身になってしまえば分担にならず、他の人の負担が増えます。
昨日も書きましたが、作業をていねいに自らの力で行うことをそれぞれのメンバーが重視することが、グループワークの成功の条件です。いっしょに作業するメンバーと自分との関係性=役割分担をうまくできない人に、人と物の関係性をつくりだすデザインという活動ができるわけがありません(相性などの組み合わせが原因でうまくいかないケースもあるので一概にはいえないんですけどね)。
他人が話すことばや文章で書かれた内容を要約できないという人は、もしかすると普段から本を読むのでも、そもそも構造的に整理された文章ばかりを読んでいるのかもしれません。あらかじめ要約された文章なら読めるが、小説のような文章で書かれると構造がつかめず要約もできない。さらに抽象的な文章になるとお手上げ。それを本のせいにする。他人の話を聞く場合でも理解できないのは相手がわかりやすく話さないせいにするのかもしれません。
そうじゃないでしょ、と。それは間違いなく自身の読解力の問題です。ことばで表現された内容を、頭のなかで構造化して理解する力が身についていないのです。そういう自分をまずちゃんと見つめて認めなくてはいけません。
いまの段階でできないことはすこしも悪いことではありません。
悪いのは、問題を他人のせいにしてしまい、自分の問題を認めないがために、将来的にもそれができるようになる道を自ら閉ざしてしまうことです。
デザインの基礎力としての読解力を鍛える
文章や口頭での話の読解や把握ができない人のなかにもいくつかタイプ分けができます。慣れていなくてできない人。これは慣れてもらえばいいので問題はありません。
やる気がなくてできない人。、これはまぁ、そういうスタンスであればどうしようもありません。
問題なのは、いちおやる気があるのに、そもそもの読解力に原因があってできない人がいることです。これはもう一回、小学校の国語の授業からやり直してもらったほうがいいかなと感じることもある。これは厭味で書いているのではなく、本当に小学生の授業でやったのと同じ訓練を大人としてやる必要があると感じるからです。むしろ、大人にこそ読解力の訓練は必要で、それを子供のころだけの学習にしてしまうのは、人の成長を線形的なものと考える間違った成長史観があるからかもしれません。
でも、実際問題、大人なので小学生の授業に出るということはできませんし、他人が力を貸してどうこうしてあげられるという話でもありません。結局のところ、本人が自主的にいろんな本を読みながら、登場人物は「何故そう思ったのか」とか「どうして、そんなことをしたのか」といったことを読み解く訓練を行うしかないと思います。本気で訓練しようとしたら、本を読みながら、そこに書かれた内容をワークモデル分析してみてもいいと思います。
もちろん、読解力不足にも程度の問題があって、まったくできない人、多少はできる人、問題なくできる人というのがある。さらに自己認識と実際のギャップもあって、できてないのにできてるつもりの人、できないと不安に思ってるけど意外にできる人もいます。
そんな感じで自己認識もかなりあてにならないところがあるので、自分はまあまあできてるかなと思ってる人でも、やっぱり読解力は日々鍛えて方がよいかなと思ったりしています。
関連エントリー
- 内省する力(第2回ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ1日目)
- 基礎デザイン学
- ユーザー行動を構造的に分析するための5つのワークモデル
- ペルソナは、製品とそれを使う人の関係性を理解するためのモデル
- 頭で考えるのではなく、身体で直観する
- わかったつもり 読解力がつかない本当の原因/西林克彦
- 発想法―創造性開発のために/川喜田二郎
この記事へのコメント