私は、デザインは「あるべき生活世界の形成である」という問題提起をたえず繰り返してきました。(中略)デザインという行為は、基本的に、人間の生命や、生存の基盤と安全、日々の生活やくらし方、生き方や生きる方法、生きていくうえでの人々の関係やコミュニケーションや社会形成などにおよぶ、人の誕生から死までの生のプロセス全体と、生命の源泉としての自然環境や、生命あるものとの共生関係を包容する「あるべき生活世界の形成である」に広く深くかかわるものだといえます。向井周太郎「デザインの意味の転換と形成」『生とデザイン―かたちの詩学1』
1953年に「芸術と技術の統一」というバウハウスの理念を引き継ぐ形で、バウハウス出身のマックス・ビルが初代校長となって設立されたウルム造形大学で学んだ向井周太郎さんは、社会的改革という理念を失い単なる商業デザインに堕した近代デザインに対して「デザインの終焉」が叫ばれた時代である1967年に、武蔵野美術大学に「デザインに携わる全く新しい型の職業人の育成をめざす」学科として、基礎デザイン学科を創設しています。
向井さんは「個々のデザイン現象に直接対応していく従来のデザイナー養成とは別に、デザインに関する高度な基礎理論と造形能力を身につけた、デザインにおいて新たに開発すべき諸問題を追求しうる能力をもつ計画者(プランナー)、デザイン研究者、教育者、評論家等の育成を目標とする」のが「基礎デザイン学」だとしています。
トランスディシプリナリーな構想としての基礎デザイン学
1998年に書かれた「基礎デザイン学会設立趣旨」をみると、この学問が視野に入れた領域が驚くほど広いことがわかります。「基礎デザイン学」科では、設立にさいして、デザインの問題やその実践的な方法論の展開について、基本的なデザイン専門科目のほかに、哲学、文化人類学、社会学、心理学、論理学などリベラルアーツとの積極的な連携を推進するとともに、まったく新しい特色として、次のような学問や方法論との連関においても積極的に探究していくことが可能なカリキュラムを編成しました。たとえば、記号論、デザイン史、技術史、インフォメーション美学、サイバネティックス、形態学、色彩学、視覚方法論、表示方法論、エルゴノミィックス、メカニズム論、映像工学、トポロジー、言語学、音声学、コミュニケーション論、文体論、経済学特論、社会学特論などを挙げることができます。
人びとの生活文化をつくる仕事であるデザインには、物事を包括的にとらえる視点が必要とされ、それゆえ、こうした幅広い分野にまたがる領域横断的なフィールド設定になるのも納得がいく。もちろん、ひとりでこんな幅広い領域をカバーできる人はそうそういませんから(それこそ松岡正剛さんレベルの読書量が必要ではないか、と)、とうぜん、協働作業が前提となり、それゆえ領域横断的なコミュニケーション力が求められる。また、本人自身が類稀なるトランスディシプリナリーな才能をもつバーバラ・M・スタフォード女史が語ったように、そこでは領域を超えたつながりを生み出すアナロジカルな発想法も重要になってきます。
自ら持たぬものと結合したいという人間の欲望がうむアナロジー(analogy)は、とめどない揺動を特徴とする情熱的なプロセスでもある。身体にしろ、感情にしろ、精神的なものであれ、知的なものであれ、何かが欠けているという知覚があって、その空隙を埋める近似の類比物への探索が始められる。
領域横断はある意味僕自身が得意とすることでもあり、このブログでも常にさまざまな方面への好奇心をもつことの必要性を訴えてきたわけですが、不勉強ゆえに、すでに「基礎デザイン学」としてこうした構想が立てられていたことを知りませんでした。まったくの不覚だと感じる反面、こういうものがすでに存在していたことを嬉しく思います。
ポストデザインとしての基礎デザイン学
向井さんは1960年代の「デザインの終焉宣告」を経て、ポストデザインのデザインと呼べるようなラジカルな新しいデザインの認識が必要であると捉えています(「デザインの終焉」についての事情はひとつ前の「デザインと文化、あるいは、フォルムとファンクション」を参照)。その具体的なプロジェクトが「基礎デザイン学」なんですね。このポストデザインのデザインとしての基礎デザイン学が目指すものこそが冒頭の新しい生活世界の理念と形成です。今日の情報社会といわれるマルチメディアなどの新たな技術革命のなかで、この新たな世紀の生活世界はどうあるべきか、生産と消費のシステムはどうあるべきか、私たちはいかに「共生」の思想を展開すべきか、新しい次元で、再びデザインの改革性、その新たな変換の理念が求められているといえます。向井周太郎「デザインの意味の転換と形成」『生とデザイン―かたちの詩学1』
まさにおっしゃるとおり。僕はぜんぜん別の方向から文化の再生が現在のデザインの課題と捉えていたわけですが、まさにいま自分たちがどう生きるのかということを組み立てなおすことが必要だと思います。それにはデザイン思考というアプローチが必要なはずです。
デザインが「あるべき生活世界の形成である」ためには、すくなくとも「あるべき生活世界」の理念を構想する力とその理念の実現にむかって具体的な物事を形成する力の2つが必要となります。その力の習得が基礎デザイン学における教育や研究の課題だといえるのでしょう。
惜しむらくは、この基礎デザイン学の理念や目標があまりに社会浸透度が低いことでしょうか。
この理念が共有されないことは本当に残念なことだと思うので、微力ながら今後しばらくはこの理念と「基礎デザイン学」という名称の普及に助力していこうと思いました。
関連エントリー
- デザインと文化、あるいは、フォルムとファンクション
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- ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識/バーバラ・M・スタフォード
この記事へのコメント
通りすがり
基礎デザイン学科は武蔵野美術大学のはず。。。
tanahashi
ありがとうございます。
シロタ
こちらのブログはとても充実していて、大変勉強になります。
紹介されている書籍やご著書も興味深いです。
恥ずかしながら、基礎デザイン学科について記事をupしましたのでお報せまで。
(トラックバックしたのですが、何度も失敗してしまいまして)
記事「武蔵野美術大学 基礎デザイン学科http://kiwamono.blog.so-net.ne.jp/2010-01-30
突然にお邪魔しました。