デザインと文化、あるいは、フォルムとファンクション

前に『ふすま―文化のランドスケープ』を紹介した向井周太郎さんの『生とデザイン―かたちの詩学1』に収録されている「モダン・デザイン」という論考は、モダンデザインと言語、文化、機能と形といったものの関係を考えるうえで、読んでいて「なるほど」と思ったので、おすそわけ程度に。
詳しくは各自、本をお読みになり、それぞれが思考を積み重ねてみてください。

アルファベットと西欧合理精神

まず、向井さんは「モダン・デザインの思想は西欧の歴史そのものの固有性に内在する」という、当たり前ながら忘れられている問題をきちんと捉えることの重要を指摘しています。

前に柏木博さんの本を紹介した際にも書いたことですが、モダンデザインには地域や民族、階級などに縛られずに人びとが自由にものを選べるようにするユニバーサル・デザインを理想としました。しかし、当然、それはモダンデザインを推進した西欧の「当時のそれら先進国が直面した近代化の普遍的な問題と深く関連しているのですから、この二重性をあらためて読み直さなければならない」と向井さんが指摘するように、モダンデザインは理想として普遍を標榜しながらも、一方で西欧固有の問題と深く結び付くものであったという矛盾を抱えていることを見落としてはなりません。

そのいくつかの問題を向井さんは指摘しているのですが、そのひとつに言語-アルファベットの問題がある。それはデリック・ドゥ・ケルコフが『ポストメディア論―結合知に向けて』で指摘していた問題でもあって、26文字の操作で成立する、文脈からの高い自律性とそれゆえの合理性を有した言語をもつ西欧の合理精神の問題です。
向井さんは西欧のアルファベットが、絵画言語としての「遠近法」、音楽言語としての「五線記譜法」など諸芸術の固有の芸術言語を生み出していくことにも着目する。それぞれの芸術言語がそれぞれの芸術領域を分節していく。

当たり前のことですけど、このアルファベットを記号体系として用いる西欧の合理精神は、現在のITや情報デザインに分野にも大きく影響を与えているはずです。HTMLや各種のプログラミング言語であれ、著しく文脈依存性の低い自律性をもったアルファベットの記号体系の延長線上にある。それは漢字仮名交じり、さらにはアルファベットも交る世界でも稀有な言語体系をもつ日本的思考とはまったく別の世界観であることをもう一度しっかり見つめ直す必要があるでしょう。
漢字仮名交じりの言語をもつ日本語の文章からは、文脈依存性と象徴性の高さをもつがゆえに、そこからは匂いや肌触りなども伝わってくる(もちろん、その感受性をもち、自らの感覚に敏感かつ意識的である人であればですが)。機械のメカニカルな合理性はうまない代わりに、自然と人間、マクロとミクロが重なり合うような思想がそこからは芽生えてくる。
そうした言語体系をもつ文化の特質をITや情報デザインの分野に取り入れていく必要がいまの日本にはあるのではないかと感じます。それには白川静さんの漢字研究や杉浦康平さんの文字意匠の研究なども大いに参照しなくてはならないでしょう(まぁ、こう書いても、誰もそれを本気でやろうとしないでしょうけどね)。

モダンデザインと西欧近代の問題

ちょっと脱線しました。アルファベットの記号体系に基づく西欧に話を戻します。
西欧では、諸芸術領域それぞれで独自の芸術言語を創出することで、各領域の分節を可能にしたという話でした。

ただ、そうした領域の分節がモダンデザインが生まれた時代に解体していく。例えば、カンディンスキーの絵画においては点や線や色によって構成された画面が音楽や詩に接近するなどの動きがみられる。

モダン・デザインが成立する背景として生じた西欧近代の諸芸術の革命とは、実はそのようにして自律をとげたそれぞれの芸術固有の伝統的な記号(言語)体系の解体作業にほかならないということができます。
向井周太郎「モダン・デザイン」『生とデザイン―かたちの詩学1』

アルファベット26文字という表記体系は、機械の部品のようにも思えると同時に、その言語の部品かを生み出した知の体系が同時に自然科学や機械を生み出す合理精神につながっている。ただ、その合理精神が高山宏さんなどがしきりに指摘するように、近代においてはそれまでの文化における物と記号の関係がゆらぎ、それを再構成する必要に直面した。さらには機械生産による無名性(アノニマス)を全面に帯びた物が大量生産され、物からは人間性が剥奪されていく。そこにモリスらのアーツアンドクラフト運動なども生起してきて、それがバウハウスなどのモダンデザインの流れにつながっていく。それが向井さんがいう西欧の「先進国が直面した近代化の普遍的な問題」です。

そうした問題に対し、西欧では技術と芸術がそれぞれの反対の方向を目指すことになる。

技術が外なる自然を対象化することで、人間身体を外在化させ道具や機械を生みだし中心化していったのに対して、芸術は人間の内なる自然としての内面性あるいは生の再体験への方向(混沌とした周縁)に向かったといえるのです。
向井周太郎「モダン・デザイン」『生とデザイン―かたちの詩学1』

中心化へ向かう技術と周縁に向かう芸術。バウハウスの運動が理念として掲げた「芸術と技術の統一」は、この2つの矛盾を弁証法的に昇華するものとして捉える必要があることを向井さんは指摘してくれています。これはなるほどです。

フォルムとファンクション

もうひとつのモダン・デザインの問題として、そうした西欧近代が直面した問題の解決の側面でもあるモダン・デザインがそれとは別の問題を抱えていたはずの異文化の領域にも、ユニバーサル・デザインの理念とともに広がったということがあるでしょう。

例えば、機能主義の有名なテーゼ「形態は機能に従う」にしても、一方では日本にも柳宗悦さんがいうような「用の美(用とは共に物心への用である)」という類似した考え方がある。ただ、その双方が同じかというと必ずしもそうではない。

日本にもたとえば、民芸運動のなかで〈用即美〉ということがいわれました。器のような形あるいは構造そのもの自体が機能である原初的な道具は、固有の素材と技と結びついた文化の性状があるにもかかわらず、その形の特質ゆえに形と機能が合一であるように映ります。西欧においても、このような原初的な道具の合一性をもとめました。それは生物の有機体に近似して映ずるからです。
向井周太郎「モダン・デザイン」『生とデザイン―かたちの詩学1』

ここで向井さんが指摘しているように、形と機能は実はなんら直接的な関係をもつものではない。「形態は機能に従う」といっても、本来、それはその地域の文化における固有の素材や技、そして、その文化における生活の歴史を介してしか、形と用はつながらない。個々の文化の恣意性を排除して機能と形態のつながりは見いだせないにもかかわらず、モダン・デザインはユニバーサル・デザインと機能主義という矛盾する理念を追いかけてしまった感があるのです。

機能と形の関係性を常に変化させる文化のダイナミズム

機能が決まれば形が決まるということがいえないことを証明したのはまさにモダンデザインそのもので、いまも多くのプロダクトは内部的な機能とは無関係な外観をまとっています。であれば、そうしたインダストリアル・デザインの方法論を極端に推し進めたマーケティング的発想のアメリカデザインの影響を強く受けている日本の商業デザインの分野において、デザインが外観のお化粧直しをすることとして認識されているのもなんら不思議はないでしょう。

人間同士の交流にしても、人とものとの関係にしても、それらが相互に親しく触れあう接点というのは、本来、表面や外形、あるいは外側に立ち現れる知覚可能な現象を介してなのです。歴史をふりかえってみると、文化というのは常にそういう仕方で、ある形なり形式が生みだされ、そこへいろいろと意味が凝縮してきたのではないでしょうか。そしてそれが逆に因習を生みだしてくる。それをまた変形したり解体したりする。現代の表象への関心は、また他方急速な技術の進歩と物の変遷のスピードと物の豊富さ過剰に対する一つの疎外からくる大衆の反撃と見ることも可能です。
向井周太郎「モダン・デザイン」『生とデザイン―かたちの詩学1』

「現代の表象への関心は~」云々はおいておいたとしても、形や形式が意味を生成し、意味は因習を生み、さらにそれを変形・解体する動きが生じるという風に、文化をダイナミックなものとして捉える視点は非常に大事なものだと思います。

物の形と機能、機能と用、さらには価値と利用行動などを静的な点ととらえて利用者のニーズなり利用の状況をわかったつもりになってデザインしてしまうことが多い。いや、デザインに関することのみならず、人間の知識や思考、価値観、行動などと物や環境など外界との関係性を固定した関係性として捉えようとしてしまいがちな人が多い。
ただし、実際にはそれらのどれもが何一つとして他との関係において静止した状態にあることはない。関係性は常に変化しているのであって、それらは静的な点として捉えるのではなく動的な線として捉えなくてはいけない。言い換えればそれは情報として固定した形で外から眺めるのではなく、常に情報化し続ける行為としてそれに参加する必要があるのです。

フォルムとファンクション、形と用をつなぐ文化という視点を欠かさないこと

そうはいってもデザインとは関係性を固定化することでもある。ただ、その際には変化する文化の文脈のなかにおいて、そのワンシーンを切り取って固定化することをしないとそもそもおかしなことになるというか、人びとに受け入れてもらえない。文化の文脈の流れのなかで、意味と因習、そして形態や機能との関係を意識的に解体し変形・再構成することがデザインにはもとめられる。

ただ、もちろん、変形・解体といっても、文化における物と人との諸々の関係性はすべてが意識の上で行われているのではなく、エドワード・ホールが『かくれた次元』などでプロクセミックスの問題としても語ったように、そもそも意識下にあって隠されているものもあるのですから、変形や解体が容易に可能なものばかりではなかったりもします。そこがデザインのむずかしいところで、モダンデザインがはまった罠でもあるのでしょう。

いずれにしても、現在のような文化という視点を欠いた思考からは、バウハウスが理念として掲げた「芸術と技術の統一」された物さえ生まれてこないでしょう。フォルムとファンクション、形と用をつなぐ文化という視点を欠けば、常にデザインとは機能や人びとの用とは切り離されたお化粧直しの価値しかもたないはずです。

そろそろ、このあたりのことをきちんと反省していく必要が日本のデザイン界にはあると思うんですけどね。まぁ、デザインをサラリーをもらうためだけにやってるのであれば無縁の話なんでしょうけど。

  

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