松岡正剛さんの本に関するブックリスト

松岡正剛さんの本も結構な数を読んできたので、このあたりで一度まとめてみてもいいかなと思ったのでさっそく。

現時点で読んだのが今日紹介する14冊。

P.S.
  • 「編集工学」に、多読術を追加。15冊に(2009-04-16)

とりあえずこの14冊をブックリストとしてまとめておきますが、松岡さんの本のよいところは、それ自体が様々な本への扉を開いてくれるブックリストとしても機能する点だと感じます。
僕自身、松岡さんの本を読んで興味をもつようになった本は数多くあります。どのくらい多いかというと、興味をもっても読むのが追いつかないくらい、様々な方面に対する好奇心の目を開いてくれます。

何より日本を見つめるさまざまな視点を教わったことが大きい。
いまの僕らはあまりに日本を知らなさすぎます。無知であり狭い視野しかもたないがゆえに、形骸化した観念のみで日本を想像してしまいます。自ら日本をつまらなく退屈なものとして想像してしまう。でも、実際の日本は松岡さんがその編集工学的手法を駆使して紐解いてくれるように、多様な魅力をもった豊かなイメージをもっとものです。

そんな日本の多様で魅力あるイメージを紹介してくれる松岡さんの様々な本をここでまとめておこうか、と。

※書名のリンク先は当ブログの書評エントリーです。

方法日本

松岡さんは日本を主題(テーマ)としてみるのではなく、方法としてみます。日本の方法ではなく、日本という方法です。和歌や俳句、能や文人画、禅庭や数寄屋造りなどにみられるような省略が利いた「静かな日本」「和魂」のスタイルがある一方で、歌舞伎や日光東照宮の装飾や、辻が花染めや織部焼、祭りの山車や神輿のような華麗で過剰な「賑やかな日本」「荒魂」のスタイルが同居する。どちらか一方のみをよしとするのではなく、両方とも抱え込んで、和漢や和洋を巧みにアワセ、漢字仮名交じり文字を使い、カレーライスやたらこスパゲティを生み出しながら、多重で多層にイメージを重積していく、重ね合わせていく。それが方法日本であり、日本という方法です。そうした方法日本のおもかげを松岡さんは様々な著書で、さまざまなものをテーマにして描きだしてくれています。ここでは次の5冊を紹介しておきます。



日本という方法―おもかげ・うつろいの文化
アワセ・キソイ・ソロイという日本的な編集方法、創作方法に「日本という方法」を見出しながら、和歌や茶の湯、神話や仏教、そして政治や経済のシステムなどのなかにも「日本という方法」が駆使された日本のおもかげ・うつろいを探っていく一冊。東アジアの片隅に南北に長い列島として華々しく移り変わる四季のある自然環境をもった国が歴史的に蓄積してきた「日本という方法」を浮かび上がらせる。
連塾・方法日本1 神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く
2003年7月の第1回からの連塾で濃密な講義を収録した一冊。「方法日本」を各回のテーマに即して熱く語る松岡さんのライブ感のある講義の模様が文字を通しても伝わってくる。最初の3回を収録した一冊ではサブタイトルにもあるように神と日本、仏教と日本のアワセがいかに「方法日本」を形作り、それが現在の日本の基盤をなしているかが熱く語られます。「日本によって日本を破り、日本によって日本を掬うということが求められている」。松岡さんはここで、日本人自身が日本についての説明をもっと深め、もっと研ぎ澄ますことが必要だと説いています。この本は、その説明を各自が考えるためのガイドブックとしては最適。
山水思想―「負」の想像力
「ぼくはもう一度、雪舟から等伯への道程をたどってみたかった」。この1970年に亡くなった日本画家・横山操の最期の言葉を出発点として、中国で生まれた山水が日本の山水に変化していく様に「日本という方法」を浮かび上がらせる。風景論として山水画を見、単に風景の問題を山水画のみの問題としてではなく、和歌での景色の選びかたや詠みかたや、禅庭の作庭とも結びつけている。<もしわれわれが「方法」を見失っているというなら、われわれは「山水という方法」の中にいたのだということを思い出すべきではないか>。山水というひとつの主題にフォーカスすることで、「方法日本」のディテールにぐっと踏み込んだ一冊です。
花鳥風月の科学
「山」「道」「神」「風」「鳥」「花」「仏」「時」「夢」「月」を日本文化を彩る10の主題として捉えながら、日本という方法をマルチメディアな情報システム的な視点から探っていく一冊。10の主題にひとつずつ焦点を充てていくことで、花鳥風月という漠然とした風物や現象にはダイナミックな動向があり、花鳥風月の科学にも不思議がいっぱいあって、科学の側でもうまく解明できていないばかりか、科学者の目にもどこか花鳥風月のもつ物語性のようなものが要求されていて、それは科学とはいえ自然の前の人間の受け止め方のシステムにも問題をおくべきであり、これからの科学は「情報」をとりあつかうべきで、それには情報の概念を大幅に広げなくてはならないということを示唆していきます。
日本数奇
世阿弥のつくった複式夢幻能や利休が大成した茶の湯は、マルチメディアな情報システムだった。祭りや芸能は「中・奥・辺」の構造をたくみにシミュレーションするシステムのひとつだ。縄文の縦櫛が弥生の横櫛に変わっていったのもよく見れば「眼の編集」ともいうべき文化的な編集のプロセスがあった。梅や桜、唐草や咋鳥などの文様や意匠の系譜、神社の空間や仏壇のしつらえ、利休や織部などの茶の湯の文化の仕掛け人、和算や江戸の人口知能、日本の歴史上にあらわれた様々な数寄の試みを通して見えてくる「日本という方法」に焦点をあてた一冊。


  
 

世界と日本

松岡さんによる「日本という方法」の探索の試みは単に日本にのみ着目して行われているのではありません。世界の動向のなかに日本の動向を関係づけて探っていくという試みも数多くなされています。そういった視点で書かれた代表的なものがこの3冊です。



17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義
もともとは帝塚山学院大学・人間文化学部向けに行われた講義を再編集して収録された一冊。世界と日本の「人間文化」という視点から5回の講義によって俯瞰していく。「日本」を世界から孤立した島国として捉えるのではなく、世界的なつながりのなかで、その動向を探っていく。その守備範囲は古代の神話の世界から宗教が芽生えた時代を経て、おおよそ中世前期までにわたります。その範囲での世界と日本の歩みが、人間は生物であり、生物とは生命であり、生命とは情報であるという基盤の上に語られていきます。
誰も知らない 世界と日本のまちがい
『17歳のための世界と日本の見方』の続編的な一冊。従って、その守備範囲は中世後期から近世、そして、近代にいたります。エリザベス女王は織田信長の一才年上なんて形で、世界と日本をつなげてみます。エリザベス女王も信長もおなじく自国の外にその力が及ぶ範囲を広げようとした人ですよね。そこにはネーション・ステートの問題と資本主義の問題が背景として横たわっている。それを語る本書のタイトルに「世界と日本のまちがい」とつけられているんです。これもぜひ読んでほしい一冊です。
フラジャイル 弱さからの出発
この一冊で松岡さんは、弱点、欠陥、不足など、従来は「強さ」の陰に追いやられてきた弱々しくフラジャイルなものに焦点をあてる。「民主的であれということ、泣きごとを言わないこと、戦いは正々堂々とすること、付和雷同しないこと、個性を磨くこと、男は黙ってサッポロビールを飲むこと」、従来、僕らが教わってきた美徳には、弱さに着目した視点が欠けています。それは網野史学が見出した中世の職能民の自由や南北朝期を経た社会的構造の大変換にともない、それらが賤視・差別化されていく様を見事に隠してしまった結果ともとれます。ただ、それは決して日本だけのことではない。強さによって弱さを排除すること、差別化することで、世界は現在のシステムを稼働させることを可能にしている。ただし、それは必ずしもうまく機能しておらず、現在さまざまな問題を露呈している。「もはや大声によるプロパガンダを拒否し、あて小さな声に耳を傾ける時期が来ているようにおもわれる」という松岡さんの結びのことばにあらためて耳を傾ける必要がある。


  

ことば・文字

編集工学的な方法を用いて、「日本という方法」、そして生物である人間にとっての情報を常に視野にいれた松岡さんの思考において、ことばや文字というもののもつ意味は大きい。ここでは白川静、良寛、空海という日本の歴史上、ことばや文字に対して大きな貢献を果たした3人を扱った3冊を取りあげておきます。



白川静 漢字の世界観
白川静さんの学問の世界をわかりやすく新書にまとめた一冊。松岡さんは白川静さんの学問に目を向けることは<「文字が放つ世界観」を覗きこむことであり、古代社会このかたの「人間の観念や行為」をあからさまにすること>だという。これは白川さんの本を実際に何冊か読んだ僕自身、すごく納得することばです。文字を扱うのに「人間の観念や行為」から切り離して考えることはできません。また、そうした観念や行為が育つ社会の構造やその変化に目を向けずにおくことはできません。なぜ古代においてのみ文字の創出が可能で現実化したのか。なぜ、いまそれは不可能なのか。そのことを考える上でも非常に参考になる一冊です。
外は、良寛。
江戸末期、もはや禅などの仏教も力を失った時代に、禅僧として生きた良寛。「良寛は書くことで、書くことを捨てている人です」と松岡正剛さんはいいます。ことばも書くという運動も消えていくが、書は残る。禅では不立文字のことばもある。何かを知るということは何かを忘れる、捨象するということ。西洋ではその矛盾を弁証法において止揚するが、日本においては矛盾を止揚することなく、矛盾は矛盾のまま、その極を消していく。そこに松岡さんは「日本という方法」をみる。江戸末期において良寛は、万葉集や古今和歌集の時代をみている。そして、それは近代に入って日本文化から消えて行ったものです。<良寛は「はかなさ」を超えたわけではない。むしろ「はか」の有り様そのままを遊んでみせた。あったりなかったり、出たり入ったりするその「はか」に遊んでみせた>。万葉集や古今和歌集が消えた現在をただはかなく思うだけでなく、良寛のようにその「はか」を遊んでみせる方法を生み出すことが必要かもしれません。
空海の夢
空海を通して東アジアの動向を探る。この『空海の夢』はそんな大きな一冊です。<「坐る」とは東洋の恐ろしい発見だった><右脳に直観、左脳に方法をもって・・・><空海の構想には遠慮がなさすぎたのだとおもう。日本人はたとえそれが真実であれ、あまりにあけすけに「構想の全体」が提示されることを容認したがらない>。空海という天才が編んだ東アジアの巨大な思想、そして、曼荼羅というイメージには、まさに様々な「日本という方法」「日本的編集方法」が躍っている。古代の祭祀を司る氏族であり、文字のない時代に古言(ふること)を司る力をもっていた佐伯氏の出身である空海が、挑んだことば・文字、そして、イマジナリーな世界。それはひとつの「日本という方法」の極点でした。その歩みがこの一冊で見事に紐解かれています。


  

編集工学

松岡さんといえば「編集工学」。ただ、松岡さん自身が「編集工学」について語った書はそれほど多くありません。



知の編集工学
情報が情報を呼ぶ。情報は情報を誘導する。そして、情報はひとりでいられない。情報はそれ自体、編集へと人びとを誘います。そんな情報の性質に目を向けながら、編集とは何か、それがこれまでの人間の歴史において何を編み出してきたかを紹介してくれる一冊。情報、編集が生みだしたものは大きい。例えば、<コーヒーハウスや茶の湯は、経済と文化をひとつにしたことにめざましい特徴がある>と、ここでも世界と日本の動向を関係づけながら、情報があふれた場であるコーヒーハウスという場でかつてジャーナリズム、政党、株式会社、広告、クラブが生まれ、それが現在も稼動するシステムのモジュールとして生きていることにも着目します。ほかの著作とはすこし違った視点から松岡さんの思考を眺められる一冊です。
多読術
「読書はそもそもリスクを伴うもの」「何かを得るためだけに読もうと思ったって、それはダメ」「本はノートである」「平均的な読書を求めてもダメ」「読書をしたからといって、それで理解したつもりにならなくてもいい」などなど。本を読めない人が誤解しているはずのことが、そもそも読書とはまったく無縁であることをさまざま角度からこの本は教えてくれます。読書とは編集である、コミュニケーションである、それは書き手と読み手の相互作用であるだけでなく、世界がもともと携えているはずの「意味の市場」へのアクセスである、と。読書というのは、人間がそもそも世界を読むやり方とすこしも違わない。無知から未知への旅。そう。無知からはじまっても理解に到達するわけではない。それが読書であり、読書のたのしみだと思いださせてくれる一冊です。


 

対談・講義集

対談における松岡さんは、単著とは違った面を見せてくれます。ここではそんな異分野の方との対談と講義集を紹介しておきましょう。



二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑
理論物理学者の佐治晴夫さんとの対談集。視界にはいるものがすべて輪郭をあいまいにしていくトワイライトの世界で、ここでは文学や科学、仏教や工学が混じり合って溶け合って、普段とは異なる表情を見せてくれ、それがとても面白い。宇宙のはじまり、生命の進化、意識の謎から、恋愛や感性のトキメキ、数学の美しさや失望の香ばしさなど、実に幅広い話題を佐治さんと松岡さんの二人による絶妙なオーケストレーションで1つに紡いでいく様は実に魅力あるものです。
脳と日本人
茂木健一郎さんとの対談集。ここで展開される、二人のことばのキャッチボールは実におもしろい。例えば、茂木さんが「現代人は足腰が弱い気がする」といえば、松岡さんは「彼岸に行く足腰がたりない」と応える。おなじ科学者との対談でも佐治さんの対談とはまた違った、人間の思考や感情や知覚を含めた情報システム的な視点で語られることが多い。もちろん、ここでも能における物真似(物学)や浄土と穢土の関係、もどきやうつしなどの日本という方法と生物や組織におけるライトサイズなどの関係など、松岡さんが「日本という方法」を探る視点を見出せます。
デザイン12の扉―内田繁 松岡正剛が開く
松岡さんとインテリアデザイナーの内田繁さんがホスト役となり、養老孟司さん、日比野克彦さん、樂吉左衛門さん、柏木博さん、田中一光さんらを招いて2000年に行われた桑沢デザイン塾特別講座「デザインの21世紀」の講義を書き下ろしたもの。<量に向かうことは、質の変化に克明につき合うことを意味します。そうした経験が、できた瞬間に茶碗を壊すかどうかといった判断力につながるはず>、<個を越えるには、現代では<量>も必要です。トヨタ、ギャップ、ユニクロ等は膨大な量を出しますが、個人でも量を質に変えてゆける方法論を持てるはず>ということばは、デザインやものづくりを考えるうえで示唆的です。


  

以上がこれまで僕が読んだ松岡さんの本。今後も新しく読み終えた本はここに追加していこうか、と。

関連エントリー


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック