2009年02月11日

模様を生む力の衰え

松岡正剛さんの『連塾・方法日本1 神仏たちの秘密』を読んだ際に気になった言葉がありました。それは日本が古来重視してきた手法である「アワセ・ソロイ・キソイ」のうちの「ソロイ」に関する発言でした。

「ソロイ」は2つのものを並べて組み合わせる「アワセ」によってできたものを揃えていくことを指しています。和漢朗詠のように漢詩と和歌を同じテーマで合わせるのがアワセ、それを揃えたものを一冊の『和漢朗詠集』にするのがソロイです。



古田織部の器と辻が花染め

このソロイに関して、松岡さんはこんな風に言っていました。

「ソロイ」といっても、ウェッジウッドの食器セットのように文様がすべて揃うわけではない。日本で初めて器に独自のセット感覚をもちこんだのは古田織部でしたが、五客の向付の文様が一見揃っているようでいて、よく見ると一つひとつが形も文様もちがうというふうになっています。むしろ不揃いなのにソロイになっている。これこそ日本の方法の秘密です。

織部の向付に関しては『千利休より古田織部へ』で久野治さんが、当時の中国の食器が白磁が中心で形も丸の大小という単調な形であったり、師である利休の茶の湯で用いられたのも楽長次郎の黒・赤の楽茶碗に代表されるようなストイックな造形であったのに対して「織部は多彩とも思われるカラフルな色合い、質感のことなる豊かで明るい表情を持つ器の食い合わせをシンフォニーを奏でるように四季それぞれの食材にそって工夫、創意することとした」と書いているように、当時の流行であった「辻が花染め」の意匠も吸収しつつ大胆な文様を器に焼き付けたものです。

「辻が花染め」はそもそもパッチワーク文様であり白地の部分と絞りの部分に分けて別の文様を染付けます。織部の器も同様で俗に織部釉とも呼ばれる釉薬をかけわけ白く残した部分に鉄絵で絵柄を入れたりします。
その意味で織部の器は単品ですでに不揃いの体をしめしている。それが形も異なる五客が揃えば自然と「よく見ると一つひとつが形も文様もちがうというふう」になるのは当然かもしれません。そうしたアシンメトリーで不揃いの感覚をよしとする美意識が、日本には常にあったというべきでしょう。それがなくては織部の器も「辻が花染め」も社会的に認められることもなかったのでしょうから。

文様の扱い方が超ヘタクソ

ただ、松岡さんの「ソロイ」に関する言葉で僕が気になったのは先の引用に続く次の箇所なんです。

ところが、現在の日本はこれがうまくできなくなっている。世界のスタンダードに合わせて、何もかも同型・同質に揃えようとしすぎているし、ミニマルなシンプル・デザインが流行して、文様の扱い方が超ヘタクソです。

そう。「文様の扱い方が超ヘタクソ」。ここが気になった。

読んだ時にも気になったていたのですが、『連塾・方法日本1 神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く』の書評を書いたときに、このことも紹介しようと思っていたのですが、内容が濃い本なので書き忘れていました。

それを思い出したのは、柳宗悦さんの『手仕事の日本』のなかのこんな一文を読んだからです。

全体として模様を生む力が衰えて来た今日では、こういう伝統的な図柄の存在は、仮令新しみを欠くとしても、日本固有のものとして大切にすべきだと思います。
柳宗悦『手仕事の日本』

『手仕事の日本』という本は、「日本の固有な美しさを守るために手仕事の歴史を育てるべき」と考えた柳さんが、昭和15年前後の日本の手仕事の現状を「今も日本が素晴らしい手仕事の国であるということ」を「見届けたその事実を広くお報らせする」ためにと記したものです。

模様を生む力の衰え

ところが、その『手仕事の日本』のなかでさえ、「模様を生む力の衰え」は上の引用部以外にもあちこちで目に付きます。

たとえば、有田焼が昔の仕事に劣る理由のひとつにも「絵が段違いに拙くなって、活々したものがなくなりました。充分もようがこなされていないためとも思われます」と書かれていますし、京都の西陣織や清水焼に関しても、前者では「甚だ見劣りするのは意匠の点でありまして、模様と色合とは、もはや昔の気高い格を持ちませぬ」といい、後者に対しても「ここでも形の弱さと、模様の低さが目立ちます」という。

実際、民藝物の陶器や磁器を物色していても、なかなかいいなと思う絵付けのものってないんですよね。
文様でも小鹿田焼の飛び鉋や読谷焼(壺屋焼)の素朴な点描きや唐草などがいいなと感じるくらいかな。あっ、読谷では線彫りの魚の文様でもいいなと思うものがあります。

絵柄のないものは扱えても、絵柄や模様はうまく扱えない。このあたりはまさに松岡さんが『連塾・方法日本1 神仏たちの秘密』で述べていたような、日本にはそもそも和魂(にぎたま)と荒魂(あらたま)があるが、いまの日本は「和」は大事にしても「荒」がないといっているのとも通じることだと僕は感じています。

すこし前の「生きた文字が溢れている」というエントリーで、芹沢_介さんの文字絵や杉浦康平さんがアジア各地で集めた文字意匠の品々を紹介した際にも、文字のもつ物としての存在感や生き生きとした魅力を読み取ろうとしなくなっているし、デザインとして用いることができなくなっているのではないかという懸念について書きましたが、模様についても同様なんだと思います。
もちろん、それは作る側だけではなくて、使う側にも言えることで模様や文様を読むことができなくなっているんだと思います。

象徴的感覚の衰え

文字も模様もいずれも象徴的感覚の産物なんですね。
それこそ、白川静さんが読み解いた甲骨文・金文の社会などは象徴性に満ち満ちた呪的社会でした。

文字や文様を美的に魅力的に扱えなくなっているのは、この象徴的感覚の衰えだと思います。物事が移りゆくなかで示す現象をその関係性において象徴的に捉える感覚を失ってしまっているところに原因がある。自然を制御しようとしすぎ、不確実なものを受け入れられなくなってしまったところに、物事の移りゆく様をひとつの文様に象徴的に結実させてみせる感覚を失ってしまったのでしょう。

象徴的感覚が衰えた僕らには、新しい文字を生み出すことはおろか、新しく美しい文様を生み出すこともできないはずです。辻が花染めや織部焼きのような文様は僕らにはとてもではないが扱えないでしょう。僕らが扱えるのはせいぜいチェックやストライプなどの幾何学的模様くらいなのではないでしょうか。

これを淋しく感じるのは僕だけでしょうか? このあたりの危機感ってデザインに関係した仕事をしている人って持ってないんでしょうか。

とにかく美と実用が、そして、使うことと作ることがそれぞれ離れ離れになってしまっているところにも問題があるんでしょうね。

   

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タグ:文様 模様
posted by HIROKI tanahashi at 11:00| Comment(1) | TrackBack(0) | デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
まったくその通り、
私は女性です。美しい文様は大好き。特に着物や
日本古来の文様には、神秘性と美しさを常々感じ
ています。
しかしなぜか工業製品をデザインしていると、美
しくても花柄や柄を商品に入れる事を、男性デザ
イナーはとことん嫌がる。幼稚に見えるからと。
家電でも、とにかく直線で無いと駄目、ステンレスやAVのように、鋼鉄みたいな質感が良いとか、そこ
は感性の違いかと思うのですが、一歩も譲らない。
昔のポットのようにただの装飾柄を入れようと言っ
ているのでは無いのに。
確かに美しい今様模様を創造することは至難の業ですが、模様=幼稚では無い。そこを男性デザイナー諸氏には分かってほしい。
Posted by ゆかり at 2009年09月30日 10:29
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