自分の好みを知るということが結局自分を知ることなんだと思う

デザインする人に必要な能力は?」ではいろいろ書きましたが、デザインする人にとって何が最も大事なことかをひとつだけあげるとすれば、それは「良い物を良いと見抜く力」なのだろうと思います。



「良い物を良いと見抜く力」をもった人としては、古くは千利休古田織部のような茶人がいました。近代でも柳宗悦さんや青山二郎さん、白洲正子さんなどは、その目利きの力を評価されています。

こうした人びとは、それぞれに自分の好みについて明確な理解がありました。利休好み、織部好みなどという言葉もあります。
何が良い物かということについて一般化できる答えなどはありません。一般解を求めるのではなく、それぞれが自分の好みを明確に知ることが大事でしょう。自分の好みが明確にわかっていなければ他人の好みがわかるはずがないのだから。

物心への用は不二である

よくデザインは色や形のことではないと言われます。もちろん、それはある意味での正しさを含んではいますが、言い方としては正しくないと僕は思います。それを言うなら正確には「デザインは色や形のことだけではない」と言ったほうがよい。
いや、言い方の問題ではないでしょう。デザインというものから色や形を切り離してしまう思考には、世界に対して開かれた人間の感性を軽視する見方が潜んでいるように思う。あるいは感性によって何かを生み出す人への畏怖=差別の気持ちが。

色や形など、人の心に愛着やぬくもりや胸騒ぎや懐かしさや楽しさなどを感じさせる、物の属性にこだわることが、デザインにとって軽視されてよいわけがありません。色や形のみにこだわるからおかしくなるのであって、色や形をそのほか物に求められる機能や使い勝手や耐久性や安全性などと切り離さずに包括的に捉えればよい。そもそも物質としてはひとつなのだから属性ごとに考え、色や形を単なるデコレーション、あるいは、表面的な装飾と捉えるからおかしいのです。

柳宗悦さんが『工藝の道』で言っているように、「用」をもたない物は生命を持たない物といってよいと思います。ただし、その場合の「用」は単に物的用という意味では決してなく、心の「用」に適うものではなくてはいけないのです。
柳さんはそれを「用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である」と言います。

心に逆らって、器に滑らかな働きはない。醜いものは使いにくいではないか。(中略)美を欠く器は、完き用器ではなく、用を欠く器は全き美器ではない。

物的用を満たしつつ、心的用としての「好み」を満たすことが、物を作る人には求められるのでしょう。

「好み」という物に対する態度が自分である

同じようなことを白洲正子さんも別の形で言っています。

現代人はとかく形式というものを軽蔑するが、精神は形の上にしか現れないし、私たちは何らかのものを通じてしか、自己を見出すことも、語ることもできない。そういう自明なことが忘れられたから、宗教も芸術も堕落したのである。

精神と形=物を別物として考えはじめたところに無理が生じたのでしょう。例えば、仏像を見るのに、宗教的な視点と芸術的な視点が分離したところに宗教の堕落も芸術の堕落もあったのでしょう。

「私たちは何らかのものを通じてしか、自己を見出すことも、語ることもできない」。
その意味で、自分の「好み」を明確にするということは自分自身を明確にするということなのだと思います。好みを知ることで自分を知るのです。自分とはその好みそのものだといってよい。
好みという、自然物も人工物もそれからまわりの人間や社会も含めた、すべての物に対する自分の態度をしっかりと見つけることの先に、自分というものが明確な輪郭をなして浮かび上がってくるのでしょう。

人の「好み」を知る

実は他人の好みを知るということも、そのことに関係してくるのだと思います。

よく定量的な調査でも、定性的な調査でも一般的な人に、その人の好みを直接聞こうとします。直接ではないにしても間接的にその人の価値観を聞きだそうとする。
でも、そういう方法がうまくいったのをあまり見たことがありません。抽象的なキーワードがやたらと数多く引き出されるだけで、物と言葉の距離はどんどん開いていく。そこには物と言葉を結びつける思想なり信仰なりがない。

これは当たり前なんですね。自分の好みを明確に掴んでいる人なんて、そうはいません。
普通の人は目の前に並べられたものから自分が良いと思うものを選んでいるにすぎません。中には並べられても選べない人だっています。元から好みがあるのではなく、あくまで限られた選択肢から好みを選ぶ能力がある人がほとんどです。
そうした人に対して好みを聞いても仕方がない。結局、記憶のなかから自分が選んだものの好みを答えるのが精一杯だから。その中に含まれていないものは好むか好まないのかさえわからない。一般に人は自分の好みがわかっていないからこそ、自分の好みをはっきりわかっている目利きの力をもった人が評価されるわけです。

人を見る目

本当に他人の好みを知りたいのなら、自分の好みをよくわかっている目利きに人びとの好みを探ってもらう必要があるのだと思います。人と物、そして、人の好みとの関係を理解している人でなくては、他人の好みを探るということ、そのものがままならないのだと思います。

利休の観察力はあまたの茶人の歴史でも群を抜いている。
岡倉天心や幸田露伴ならいざしれず、とても利休にはかなう者はいない。
あの造形力は観察の賜物である。器物を見る目はむろんのこと、きっと人の器量を見る目も鋭すぎるほどだった。
青山の鑑識眼は、骨董ばかりでなく、友人にも鋭く見開かれた。焼物を見て、こくのある、味の強い、何と言うか漸進的に迫ってくるようなものがあると、これは後期印象派だと言っていた。人間を見るにも、である。青山二郎の傾向と言うものがそうであった。

他人の好みを知るということはまさにその人自身を知ることです。そして、それはその人が世界とどう対峙していて、何を悩み何を望んでいるかを知ることだと思います。それには自分自身が世界と物、そして、自分自身の心の襞の揺れ動く様を細部にわたって感じ取れる目利きの力がある人が必要なのだと思います。

グランドデザイン

千利休も古田織部も、柳宗悦さんも青山二郎さんも白川静さんも、目利きではありましたが、自分で物を作る人ではありませんでした。むしろ、物を作る力をもった人たちを鼓舞して、ディレクションした人たちです。プロデューサーでありディレクターでした。あるいは社会を変えるような物を生み出すためのグランドデザインを描いた人たちでした。

織部はこれまで述べたように「織部十作」を設けて、みずからはグランドデザイナーとして総合的な立場から情報提供、助言指導をした。また産業振興策としては生産効率の高い「連房式登り窯」の導入、異業種交流ともいえる染め(辻が花染の流行を敏感にとらえて)とやきものとの意匠デザインの交流、キリスト教の布教をつうじて入ってくる外国文化を大胆に取り入れる結果、おりからの経済繁栄と平和を謳歌する社会風潮を追い風に、異国情緒あるいはバサラ風の意匠が好まれて、桃山時代のやきものと呼ばれるほどに抽象かつオブジェ化してゆく、その先頭にたってリーダーシップを発揮したのが古田織部である

自分の好みを知るということ、それは自分と物との関係や社会との関係を変化する流れのなかで捉えることができる力だと思います。その力を使えば、いま存在しないものを実現させることで世の中がどう変わっていくかが想像できるはずです。何を作れば世の中がどう変わるかという動きを捉えることができる。もちろん、完璧にどうなるかまではわからなくても。

今ある物をどう変えるかではなく、今の世の中をどう変えたいからどんな物が必要かを考える。そういう姿勢が必要です。実はこれが本来デザインの基本なんですよね。物をデザインするんじゃなく、世の中をデザインするために物をデザインするのだから。

そう。結局は世の中を変えるような良い物を作ったものの勝ち。人が好むかどうかなんてことをチンタラ考えている場合じゃなくて、どうやったら人びとの暮らす生活文化を変えるような良い物を作り出せるかに取り組んだほうがいい。

でも、それには白洲正子さんが言うような「精神は形の上にしか現れない」ということを忘れてはいけない。物の手触り、肌触りが人びとの心持ちに変化を与え、それが社会の変化につながっていくということを知らなくてはいけない。

ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか

「良い物を良いと見抜く」ということにたったひとつ一般解を出すとしたら、それは自分にとって良いと思う社会を実現する物が良い物ということになるのだと思います。

前にも書きましたが「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか」です。それにはまずは自分と物、自分の心の動きと社会の動きの関係を「好み」というテーマで捉える力をじっくりと経験のなかで養っていくことが大事なんじゃないでしょうか。

頭で考えるのではなく、身体で直観する」で書いたように、こういうことは頭でいくら考えたって身につきません。感覚を通じて得られる情報は言葉が捉える情報よりはるかに豊かな内容を含んでいるはずです。言葉でのみ思考するということはそういう豊かな情報をすべて捨象してしまっているということです。それではいくらがんばってもすでに言葉として形式化された以上のものは生まれてきません。
そうではなく目の前にあるものを自分の感性を自由な状態にした上でゆっくりと受け入れていく。そういうことを日々修行のようにやっていかないと感性なんて磨かれていかないと思います。千里の道も一歩一歩です。その一歩一歩が突然とんでもないスピードを生み出すことになるはずです。

   

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