頭で考えるのではなく、身体で直観する

どうしたらいいか?と考え悩むのではなく、あるがままにまずは受け止めてみることが大事なんだろう。

それはまったく「考えない」ということとはちょっと違う。
考えないようにするといってもそもそもむずかしい。ただ、おなじ考えるにしても、すぐにどうしたらいいか?と結論を急ぐのではなく、まずはあるがままをじっくり感じ取るということをしてみるのがいいのかもしれない。

慌てずに、じっくりと、瞑想する感じ

慌てず、現状をゆっくりと把握する。そうする間になんとなく目の前のものにパターンが見えてくる。そう感じられたところで、一気に自分に見えているものを何かしらの形で書きだしてみるというのがいいのかもしれない。

考えに考え抜いた結果を外に出すというより、ゆっくりと観察した結果・感じた結果、見えてきたものを外に出す。

イメージとしては座禅を組む感じなのかな。
ちゃんとした座禅を組んだことなんてないですけど、目をつぶって瞑想したり、リラックスして散歩しながら思考を巡らす感じ。
外の感覚を受け入れつつ、外から得られるものを自分のなかでゆっくりと自分のなかで熟成させる。外を受け入れつつ自分の中で何が起こっているのかを覗きこむ。聞き分ける。
分析的に考えたり、常識的な枠組みのなかに当てはめて捉えるのではなく、自分の身で引き受けた感覚が織り成す像にじっくりと向き合う。

直観する、というスピード

そうしているうちに一気に見えて来ることがある。そしたら、それを一気に書き留める。
完全にわかってから書くのではなく、なんとなくわかりそうな予感で書く。

書いてみると、本当に何かを掴んだと思える場合とそうでない場合がある。
後者の場合、またやり直し。前者であっても、今度は自分で書いたそれもインプットに含めつつ、また外部に目を向けることからはじめる。

言葉は他人に自分の捉えた物事を伝えたり、自分の中でそれを固定・定着するためには必要不可欠なものだと思うけど、何かを感じつつ全体を掴みとるというのには必ずしも適したものではないのかもしれません。
こうやってブログを書くのもそう。ある程度、ぼんやりと見えているものを整理するのには役立ちますが、こうやって書くだけで何かが考えられるというわけではない。言葉による思考だけではどうしても素材が不足する。

論理的に考える力を養うのも大事だけど、実はそれって効率的ではあってもスピード感はないと最近わかってきた。とにかく周囲のスピードの速さに急かされて、つい効率的な道を選んでしまうことが多いのだけれど、実は効率的な思考法は必ずしもスピードが出るというわけではない。
それよりももっと早いのは、実は直観してしまうことです。

直観するには考えるのではなく、むしろ、じっくり腰を落ち着けてあるがままを受け止めつつ瞑想により一気に達するほうが早いのだろうと思った。

複雑系の技術としての直観

そんなことをあらためて思ったのは、前に読んだ『カオス』という本の、こんな言葉をふと思い出したから。

津田 マクリントックというトウモロコシの遺伝子の研究者がいました。彼女がやったことは何かと言ったら、顕微鏡で観察するだけなんです。しかし中へ入ってしまうわけです。遺伝子の中へ自分が入ってしまう、そういう感覚を持つんです。それで予想していくんですが、彼女の予想はほとんど当たっています。(中略)私が複雑系の技術として直観を養うという言い方をしているのはまさにそういう意味なんです。
松野孝一郎×津田一郎「複雑系のシナリオ」
池田研介、松野孝一郎、津田一郎『カオス』

複雑なものを論理的思考だけで読み解いていくというのはむずかしい。かといって、いまは普通に暮らしているだけでも複雑な問題に突き当たってしまうことが多い。
そうした状況で論理的な思考の組み立てだけでは、せいぜい表面を形式的に捉えることが可能なくらいで、深いところまでザクッと切り込んで掴みとるということはむずかしい。それなら複雑なものを複雑なまま受け入れつつ直観的に一気に内部へと切り込んでコアな部分を一瞬にして掴みとれるようになる訓練が必要なのかもしれません。

論理だけでは組み立てられない、複雑なものという意味では「美」もそうなのでしょう。柳宗悦さんも「直観」の重要性を説いています。

柳は、美の本性に触れるには何よりも「直観」の力が不可欠であると説いた。この場合の「直観」とは、「主観」とは違う意味のもので、人間が本来持っている美を感受する本能的な力を意味している。

また、「物を見るには物差など持出さずともよい。持出さぬ方がよい。持出せば物差で計れるもの以外は見えなくなってしまう」とも言っている。

言葉で考えすぎない、身体で感じることを大切に

まだ、それに気づいただけで、自分でも頭で考えてしまうことが多くて、ぜんぜんそういう風にじっくり瞑想する方法が身についてません。でも、時々、直観的な発想が生まれてくるのはまさに偶然そういう状況に身を置いたときだというのは自分の経験上でもいえること。ならば、そういう状況に意識的に身を置いてみることできっと変わってくるものがあるだろうと思います。

とにかく言葉で考えすぎないようにすることだろうな、と。
もっと身体で感じることを大事にしていきたい。
ある意味ではシャーマン(巫女)的に、直観し構想する力を養うことにあらためて取り組んでみてもいいのかもしれないと感じています。

  

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この記事へのコメント

  • 遊歩者

    はじめまして。

    今回のエントリーは、思わず帰りの満員電車の中で、深く頷いて拝読しました(声に出てたみたいで、周囲の視線が痛かった)。

    確かに頭で考えすぎると、いけない。僕も頭でっかちになって、煮えきってしまい、よく焦げついてしまいます。急がば回れって言いますが、あれがどうも出来なくて、身体では動こうとしてるのに、頭の中で先読み先取りばかり考えて、行動と思考がチグハグになってしまいます。んっ

    いきなり脱線して済みません。
    2009年02月06日 18:09
  • tanahashi

    >遊歩者さん、

    コメントありがとうございます。
    お互い、ゆっくりじっくり腰を据えて感じたものを味わうことを身につける必要がありそうですね。
    頭が知っていることより身体はもっと多くのことを知っているはずだから。
    2009年02月06日 23:32
  • たこ

    ある田舎の広告代理店に入り込み社員というスタイルのやりにくさのあまり、社員を辞めて、でもその会社で仕事を請け負い働いているものです。

    考えない動かない営業や企画スタッフから20パーセントの情報から提案書やデザインを作れと無理難題を叩きつけられるのですが、これもまた論理的に考えていても時間ばかりかかるものです。

    求める側があがったものがないと何も判断できないから、結局何らかのかたちを作らないと話も進まないわけです。

    僕の場合、直感的に散歩するようにビジュアルを作って行く中で、これが面白いとか、これが必要とかが見えてきます。
    周りにはインターネットと同業他社の資料や関係ない雑誌などを置いておき、見たり調べたりしながらラフを作っていきます。

    こんな情報とこんな時間でできるのかとはおもいつつ作るわけですが、まともに考えて整理して作っていたらできないと思います。

    逆に完璧につめない(コンセプトやフレームとしてのラフはあるが設計図としては不完全)な状態で進めることで随時いいアイデアを思いついたら反映しながら進められるのはいいことかなとも思います。

    因みに僕、棚橋さんにはマイミクにしていただいでます。
    2009年02月08日 10:38

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