生きた文字が溢れている

ラフカディオ・ハーン=小泉八雲の『日本の面影』を読んでいます。

僕が読んでいるのはハーンが1890年の4月に日本にやってきてはじめて書いた作品集『知られぬ日本の面影』27編から11編を抜粋して編集した角川ソフィア文庫『新編 日本の面影』。いまはその本の半分くらいの6編を読み終えたところです。

この本を読んでると、日本のことがますます好きになります。そして、僕らにはもはや目にすることが叶わない明治20年代の日本に触れることができたギリシア生まれで日本に帰化したハーン=八雲のことをうらやましく感じます。

詳しくは書評をあらためるとして、今日は「東洋の第一日目」と題された1編から気になったところを抜粋しておきます。

ラフカディオ・ハーンの「東洋の第一日目」

明治23年の4月4日、40歳にしてバンクーバからの汽船で横浜の地に降り立ったハーンは、人力車に乗って日本の町(横浜?)を見てまわります。はじめて見る日本の町に興奮しながら「まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ。人も物もみんな小さく、風変わりで神秘的である」との印象を受けます。

見渡す限りに幟がひるがえり、濃紺に染められた暖簾が揺れる町並みで、ハーンが眼をつけたのは幟や暖簾に染め抜かれた美しいかなや漢字などの日本の文字でした。

こうして、さまざまなものの不可思議さに戸惑っているうちに、ついに天からの啓示のように、ある思いがひらめくであろう。名画のようなこの町並みの美しさのほとんどは、戸口の側柱から障子に至るまで、あらゆるものを飾っている、白、黒、金色のおびただしい漢字とかなの賜物ではなかろうかと。
ラフカディオ・ハーン「東洋の第一日目」『日本の面影』

ハーンが見たのは、広重が「名所江戸百景」に描いたこんな光景だったのでしょうか。



ハーンは幟や暖簾に染め抜かれた文字、店員の着物にあしらわれた文字に表意文字の美しさを感じながら、「日本の通りの空間には、このように目に呼びかけ、人のように笑ったり、顔をしかめたりする、生きた文字が溢れている」と書いています。

また、はじめて実物を目にした神社の鳥居を前にして、

壮大な鳥居を初めて見た人は、もしかしたら、空に向ってそびえ立つ、美しい漢字の巨大な模型を見た、と想像するかもしれない。鳥居の持つすべての線に、生き生きとした表意文字の品格があり、書の大家が四回筆を揮って書いたような、大胆な角度と曲線を感じさせるからである。
ラフカディオ・ハーン「東洋の第一日目」『日本の面影』

と感じています。

杉浦康平さんの『文字の美・文字の力』

残念ながらいまの日本の街では、ハーンが感激したような「生き生きとした表意文字」の美が躍る光景にはなかなか出会えないでしょうね。僕らは文として書かれた情報の意味を読むだけで、文字が人のように笑ったり、顔をしかめたりしているのを感じることがない
店の看板もポスターの文字も活字化されてしまっていて「生きた文字が溢れている」という印象にはならないのではないでしょうか。それなら、まだ横浜の中華街あたりに足を運んだほうがそれに近い感覚は味わえるのかもしれませんね。ただ、その場合は日本的な控えめの美の印象ではなく、中華風の活気に満ちた文字の美ですが。

いま、多くの文字は、パソコン、携帯メールやTVの画面…などの中に収まり、書くものから見るものへ変わりつつあります。
だが文字は昔から、書いたり刻んだりして記すもの、「身体を動かして生み出す」ものでした。漢字は象形文字だと言われますが、その成立過程を考えてみても、自然の風景を写しとる、動物の姿を書き記す、人間のたたずまいを表現する…といった身体的な行為が文字のかたちの背景に潜み、文字に生気をあたえています。
杉浦康平『文字の美・文字の力』

杉浦康平さんの『文字の美・文字の力』は、杉浦さんが40年にわたってアジア文字研究の旅で採集した、80点におよぶ文字意匠が紹介されています。

中国や韓国などの文字意匠にまじって、こんな日本の文字意匠も紹介されています。



白川静さんの漢字学を持ち出すまでもなく、文字には呪的な力があると考えられてきました。古代の文身(いれずみ)、耳なし芳一の身体を覆った文字、歌舞伎などの隈取、着物に染め抜かれた文字など、人は文字を身に纏うことで、その文字がもつ呪的な力を身体に取り入れようとしてきたのです。「呪」とはそうした生命力を感じることでその力を自分自身に取り込むことをいう。つまり、感性、センスの問題です。感性、センスを用いて喜びや楽しさを感じ、それを自分以外の人にも分け与える活動をいうのでしょう。

そんな様々な事例が杉浦康平さんの『文字の美・文字の力』にはたくさん紹介されていて、見ていて楽しい。

芹沢銈介さんの「文字絵」

もうひとつ文字意匠の事例を紹介した本に『芹沢銈介の文字絵・讃』があります。

芹沢作品の中には「山」という文字、この一文字だけを描いたものが数多くみられます。また「水」の文字も好んで造形された。さらに「山水」という二つの文字を、重ねて意匠したものもあります。
これらの文字たちが、じつに魅力的な姿を見せている。なおかつ文字たちが、深い意味をはらんで形づくられている。
芹沢長介+杉浦康平『芹沢銈介の文字絵・讃』

芹沢銈介さんは、日本民藝運動において柳宗悦さんらとともに活動した方のひとりです。昨日の「どうせ持つなら長く使えるものを」で紹介した民藝店・備後屋にも芹沢さんの作品が飾られていて、ほしいなと思ったりもします(高くて買えません)。



芹沢さんの絵文字のひとつの意匠に「布文字」と呼ばれているものがあって、文字通り生き生きと布が翻って文字を形づくるものです。この意匠なんかは先の杉浦さんの引用にもあったように、文字が「身体を動かして生み出す」ものであったことがちゃんと表現されている。



紺地に白抜きされた文字絵をみていると、こういうのが店先の暖簾に並んだ光景というのは、そりゃ、ハーンじゃなくても感動するかも、なんて思います。だって、いまの日本人なんてハーン以上に当時の日本に対して異国人なんでしょうから。

こころの感受性の鈍化

僕らは情報化社会に生きているといいつつ、その情報とやらの意味だけを相手にするばかりで、その情報がのった文字やことばの形や佇まいを軽視しすぎているんじゃないかと思います。意味を頭でだけ捉えて、文字の形やことばが乗った声の響きに感情を揺さぶられることがあまりに少なくなってしまっているんじゃないでしょうか。
『文字の美・文字の力』や『芹沢銈介の文字絵・讃』で紹介された魅力的な文字意匠を目にすると、その生き生きとした躍動感ある形に心も躍ります。けれど、街中を歩いていて、そういう意匠に巡り合う機会はあまりにすくない。見る側だけでなく、デザインする側もそういう文字の呪力を扱う力を失っているんでしょうね。



それは文字やことばに対してだけではなく、物に対してもそう。機能を費用対効果で測るだけで、ただ、その機能のみを消費する。これも頭による理解だけで身体性がともなっていないんでしょう。機能と価格、耐久性などの意味的・数値的な情報だけを秤にかけて、こっちが得だとか損だとかいっている。そんな狭い目でしか物の価値を測れないから、すぐに「費用対効果」なんて言葉が出る。なにそれ? なんで費用と効果を対置することで物の存在意義を理解した気になってるの? ですよね。
物のもつ存在感や生き生きとした魅力などはいっさい読み取ろうとしなくなっています。それってちょっと淋しいことなんじゃないでしょうか。

きっと、そういう文字や物に対する形式主義的すぎる見方が人への接し方にもあらわれているんじゃないのかなと感じます。
役に立つかどうかだけではなく、その存在に感謝したり感動したり愛着をもったり、そういう繊細な目、感情をなくしてしまったら人生なんてつまらないものになってしまうのではないか、と。

ハーンの『日本の面影』を読んでいると、そんなことを感じるのです。
「神々の国の首都」という別の1編にハーンはこんなことも書いている。

この国の人はいつの時代も、面白いものを作ったり、探したりして過ごしてきた。ものを見て心を楽しませることは、赤ん坊が好奇心に満ちた目を見開いて生まれたときから、日本人の人生の目的であるようだ。
ラフカディオ・ハーン「神々の国の首都」『日本の面影』

果たして、僕らはハーンがみた日本人とおなじ日本人なのでしょうか?

   

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