例えば、中世、河原で行われた罪人の処刑の執行を実際に行ったのは「放免」と呼ばれる非人たちでした。「放免」は、彼ら自身が前科のある者でありつつも、その罪に対する罰則を文字どおり免れた放免囚人で、検非違使庁の下級刑吏として犯罪者の探索・捕縛・拷問・処刑を職能とした人びとです。彼らは口髭、顎鬚を伸ばし、特殊な祭礼時や一部の女子にしか許されなかった綾羅錦繍、摺衣と呼ばれる派手な模様のある衣服を身につけていたといいます。
また、牛車に付き添って牛の世話をする牛飼童は、成人しても童形をした人びとで、烏帽子をつけず髻(もとどり)を結わず垂髪、口髭や顎鬚を生やしていたといいます。成人になっても童形をした人びとにはほかにも、猿曳、鵜飼、鷹飼などの鳥獣を操る人のように「聖なる存在」として、人ならぬ力をもつと畏怖された人びとが多かったようです。とうぜん、本当の童である子どもも神に近い「聖なる存在」として受け入れられていました。
このほかにも、柿帷(かきかたびら)に六方笠、蓬髪、覆面、烏帽子や袴の未着用、高下駄、蓑笠、長い鉾や杖、大刀など、本来は禁制となっていた服装を身につけた人びとは「異類」または「異形」、あるいは両方を連ねて「異類異形」と呼ばれたといいます。
「異類異形」の人びと
「異類異形」と呼ばれた人びとは、時には「悪党」と呼ばれることもあった人びとです。海や山で暮らす海賊・山賊をはじめ、鍛冶・鋳物師などの手工業者、楽人・舞人・獅子舞・遊女・白拍子などの芸能民、陰陽師・医師・歌人などの知識人、博奕打・囲碁打などの勝負師、巫女・勧進聖・説教師などの宗教人、さまざまな商人や交易人、非人、乞食といった人びとが異形の服装を身にまとっていました。これらの人びとは皆、『無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』で紹介した「無縁の原理」に従う自由と平和を生きた人びとです。
彼らが「無縁の原理」に支えられ、地子・諸役を免除され、関や渡での交通税が免除され自由に通行する権利をもち、それゆえに交易や金融業に携わり、都市を形成していたことは『無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』を紹介した際にも書きました。
彼らの多くが世俗の縁とは切れつつもそうした役割を担えたのは、鎌倉前期まで「聖なるもの」と信じられてきた天皇および神仏の権威と結びついた聖なる集団としての供御人・神人・寄人だったからでもあります。供御人は天皇の、神人は神社の、寄人の仏寺の、それぞれ直属民だった人びとをいいます。
先にあげたなかには近世以降、賤視・差別の対象になっている人びともいます。非人がそうですし、乞食もそうでしょう。遊女や博奕打などもそうだといえます。
こうした人びとが中世前期においては、鍛冶・鋳物師などの手工業者や商人、勧進聖・説教師などの宗教人と同様に賤視されるどころか、聖なる存在に近いものとみられていたのです。
例えば、乞食はそもそも仏教の行のひとつであり、単に貧しいというのとは違います。遊女に関しても鎌倉期までは神仏に仕え、天皇や貴族との婚姻も普通にみられた女性たちだったといいます。
それが南北朝の動乱を境に、社会的な賤視・差別に晒されるようになり、近世において、その差別は社会的に固定化されるのです。
南北朝の動乱
網野善彦さんは、14世紀の南北朝の動乱を通じて、日本社会はより一層の文明化を果たすと同時に、それまで続いた権威の構造を大きく転換させたとこの本で書いています。- 幕府と天皇という東西の王権が一挙に瓦解
- それまで「聖なるもの」と信じられてきた天皇および神仏の権威はいちじるしく低下
- 「聖なるもの」に結びついた聖なる集団としての供御人・神人・寄人への聖から賤への転落
- 頼るべき権威のないことを知った武士、商工民、百姓にいたる各層の人びとによる自治的な一揆、自治都市、自治的な村落の成長
- そうした権力の分散のために新たな権威による統合がより困難になったこと
など、60年にわたって日本社会を動乱の渦の中においた南北朝動乱は、それ以前とそれ以降で日本社会の構造を大きく変換させたそうです。
そうした中で、それまでは必ずしも社会的な賤視の目にばかりに晒されていたわけではなかった「異類異形」の人びとの立場も大きく変わります。ただし、そうした人びとの運命も一様ではなかったようです。
多くの商工民、芸能民はそれぞれに世俗的な権力-将軍、守護大名、戦国大名などにそれまでの特権の保障を求める一方、顧客、観客を強く意識しつつ、分化してきた職能を通して実利を追求し、富の力によって「有徳」になる道をひらいていった。自治的な都市はこうした人々によって形成されていく。網野善彦『異形の王権』
こちらは構造転換期をうまく乗り越えられた「異類異形」の人びとだとすれば、逆に、その立場を大きく反転させられてしまった人びともいます。
実利の道に進み得なかった一部の芸能民や海民、非人や河原者などの場合は、職能それ自体がもつ「賤」との関係もあって、南北朝期以降、社会的賤視のもとに置かれるようになります。
その代表ともいえるのが遊女です。
鎌倉期までは「公庭」に所属するものとして、神仏に仕える女性として、天皇家・貴族との婚姻も普通のことであった遊女は、南北朝期以降、社会的な賤視の下にさらされはじめる。おおらかで、ときにあからさまな「性」を否定、抑圧する空気の中で、セックスそのものを職能とすることを賤業と見る見方が少なくとも支配者層には支配的になり、遊女の「屋」の集まる洛中の辻子は「地獄辻子」「加世辻子」とよばれるようになってくる。遊女もまた、ここに聖から賤に転落したのである。網野善彦『異形の王権』
こうした賤視や差別が江戸期に入ると制度として固定されます。
自由に各地を歩き回っていた彼らが、場所的にも被差別部落や遊郭のなかに閉じ込められることになる。
異形の王権
こうした日本社会の構造的な大転換の中心にいたのが、天皇史上、きわめて特異な地位を占めると呼ばれる後醍醐天皇です。後醍醐天皇の時代、天皇の権威はすでに危機的な状況でした。
鎌倉幕府の勢力拡大によって、天皇による権威の届く範囲はすでに九州を除いた西日本のみとなっていました(九州は蒙古襲来に乗じて幕府の勢力下におさえられました)。かつ、中国や韓国との交渉の舞台に立つことも幕府によって制限されています。
こうした外的な要因からくる危機に加え、天皇家自身の内部分裂もみられたのです。後嵯峨天皇の死後に表面化した大覚寺派と持明院派の抗争は王朝自体の活力を減退させていたのです。
さらに13世紀後半からみられるようになった荘園・公領におけるさまざまな「職」をめぐる対立は、王朝の支配体系のひとつであった職の体系を根底からゆるがしており、それはついに「天皇職」そのものまで渦中に巻き込もうとしていたのです。
そうした天皇家最大の危機に対して「天皇専制体制の樹立」に突き進んだのが後醍醐天皇でした。
ただ、その突き進み方がまさに「異形」だったのです。
後醍醐は文観を通じて「異類異形」といわれた「悪党」、「職人」的武士から非人までをその軍事力として動員し、内裏までこの人々が出入する事態を現出させることによって、この風潮を都にひろげ、それまでの服制の秩序を大混乱に陥れた。網野善彦『異形の王権』
後醍醐自身の行動の中で、もう一つ、天皇史上、例を見ない異様さは、現職の天皇でありながら、自ら法服を着けて、真言密教の祈禱を行った点にある。網野善彦『異形の王権』
こうした執念が実り、後醍醐天皇は一時的にであれ、天皇による専制体制の樹立に成功します。
しかし、それはわずか3年しかもたない体制でした。後醍醐政権の成立、そして、わずか3年での崩壊が残した傷跡はあまりに大きく、すでに転換期の兆候を示していた日本の社会の構造を一変させてしまうには十分なものだったようです。
南北朝期以降の日本
前に内藤湖南さんが「『日本文化史研究』のなかで、日本文化の中国からの独立の時期を応仁の乱以降とし、その独立とともに文化が庶民レベルにまで浸透したと述べていることを紹介しました。まさに室町期の応仁の乱を境に文化が庶民レベルにまで浸透できるようになったのも、この南北朝期の動乱を期にした既存の権威の失墜とそれにともなう民衆による自治の強化だったといえるのではないでしょうか。それが織豊時代~江戸期にかけて日本独自の資本主義を発展させる原動力となり、それがあったからこそ、明治期に西洋的な資本主義を受け入れることができ、植民地化を免れるひとつの要因としても働いたのでしょう。
ただ、その時、忘れてはならないと思うのは、そのためにはかつては聖なるものとして畏怖していたものを賤視・差別化することで切り捨てるという犠牲を払ったということでしょう。そのあたりのことは松岡正剛さんが『フラジャイル』で、田中優子さんが『カムイ伝講義』でそれぞれ扱っています。
南北朝期の動乱を境に、本当の意味で日本の古代は終焉を迎えたのでしょうし、かつ、天皇制をそれ以降も維持し、神仏に関してもその権威を大きく貶めながらも生き長らえさせ、かつキリスト教に関しては徹底して弾圧することで、古代以来の呪的なものを殲滅することなく基底において存続させた点ではないかと思うのです。このことは「日本」というものを考えるにあたって忘れてはいけない問題なんだろうなと思いました。
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