荒・狂・若

実はこれ、ひとつ前の「感受性と行動力」のエントリーの一部として書いたのですが、長くなりすぎたので別エントリーに切り出し。なので、あわせて読んでいただくと、これ幸い。

その「感受性と行動力」では、次々と入ってくる情報を適宜処理できないのは情報を行動に結びつけて捉える力が衰退しているからで、その結果、情報から何かを感じ取る感受性そのものも鈍化していっているのではないかという仮説について書きました。

端的にいって、おとなしすぎるのかなと思います。
また、慎重すぎるし臆病すぎる。すべてを頭だけで理解しようとするし、頭で理解できることとできることの差がわかってないのかなという気もします。
そんな完璧にコントロールされた状態ではなくて、すこし荒れたところがあっていい。

いま、私たちの誰もが何かに抑圧されているか、無関心をよそおっています。ほんとうに言いたいことが、なかなか言えないようになっている。(中略)本当に荒れるべきときに、荒れることができなくなっているんではないか。


「荒」:聖と穢の二面性

日本にはもともと和魂(ニギミタマ)荒魂(アラミタマ)というものがあると松岡さんはいいます。

和魂は事態や気分を和ませ、和らげる。荒魂はその逆にやや荒っぽく方法を行使することです。いま、和風が見なおされ、「和」がブームになっていますが、私は今日の日本にはむしろ「荒」のほうが大事だと考えています。

これに関しては僕もそう思います。
事を荒立てないよう、和ませ、和らげることばかり気を遣いすぎて、気持ちが疲弊してしまっているし、何もかもが前に進まないどころか却って悪くなってしまっているような傾向もある。

網野善彦さんによると、古来より日本には、人間と自然とのそれなりの均衡のとれた状態に欠損が生じたりする場合に穢れを感じる傾向があったといいます。
人や動物による死穢、火事などによる社会のある部分の欠損である火穢だけでなく、人の誕生もそれまでの均衡を崩す意味で産穢だったそうですし、建物や庭を作るために巨木や巨石を動かすこともケガレとされていました。そして、そうした穢れた仕事(葬式、庭づくり、火消しなど)は非人の集団のような特殊な職能民が担っていたのです。

こうした点にも和と荒の分離があるのでしょうか。一方に俗としての和があり、もう一方に穢にもなれば反転して聖にもなる荒がある。
荒は「スサ」とも読み、スサノオはまさに荒魂を象徴する神のひとりですが、そのスサノオ自体、手におえない乱暴者としての高天原モードとヤマタノオロチを退治する出雲モードの二面性をもっています。もちろん、そうしたスサノオの荒に対するのは、アマテラスの和です。

及川葉月


かつては、そうした和と荒がちゃんと同居してバランスを保っていた。それがどういうわけか、和一辺倒になってしまっている感がある。
朝青龍がちょっとモンゴルに帰るだけで、引退勧告だという話になる。キレイ好きにもほどがあるんじゃないでしょうかって思う。『もやしもん』に出てくる「除菌女」こと及川葉月ちゃんだって菌だらけの某農大の発酵蔵でがんばっているというのに、このキタナイものすべてにフタをしようという感覚、失敗はひたすら犯さないように慎重になる感覚っていうのは、いったい何なんでしょう? って不思議に思います。

ときには必要あらば、もうちょっとスサんでみてもいいんじゃないの? と思います。

「狂」:呪霊に身をそえて進む

そんなことを考えつつ、白川静さんの本で紹介されている「狂」と「若」の2つの字形になんとなく惹かれている今日この頃なんです。

まず、「狂」という字は、犬と山の下に王を書いた「こう」という字からなる文字だそうです。

狂


出行する人に威霊を授け、途中の道で遭遇するであろう邪悪なものに対しても匡救(きょうきゅう-悪を正し、危難から救うこと)することができるようにする意が「こう」という文字にはこめられています。
「匡」という字もおなじく「こう」を匚の内に書く字で、呪器としての王(鉞)に足を加え、その呪霊に身をそえることをいうそうです。「こう」に犬を加えた「狂」も同様に、そのような方法で呪霊が憑りつくことを示す字です。

「匡」も「狂」も、敵を圧服し匡救するために出行する人が呪霊が憑りついた状態を示すものなんですね。だから、「狂」という字は、古代の中国においては現在のようなネガティブな意味ではなく、次のように捉えられていたのでしょう。

狂の精神に、私は二つの面があると思う。一は自己貫徹的な誠実さ、孔子のいう「狂者は進みて取る」という積極的なありかたである。もう一つは自己投棄的な誠実さ、〔楚辞〕の文学にみえるような、「命ならば幽にも處らん」という、「死を讓(さ)けることのない」生きかたである。
白川静「狂字論」『文字遊心』

いずれも霊力を身にまといつつ、自分に誠実に困難に立ち向かっていくすがたが見えてきます。外に向かって、こうした積極的姿勢を誠実に貫徹することができなくなっているところに、「感受性と行動力」で書いたような、外部からのインプットを自分の身で引き受けられない現在の問題があると思っています。

「若」:エクスタシーの形

さらに「若」という文字になると、その身の投げ出し方はすさまじい状態になります。

若


その字は、巫女が長髪をふり乱し、両手を上にかかげ、エクスタシーの状態となって、神意に聴き入るすがたである。アポロンの神託が、若い巫女の口を通して告げられるように、神託は巫女に憑り移って、その神がかりの状態の中で告げられる。それは神の承認を示すことばであったから、若は吉善の意をもち、承認の意を示す。

まさに、自分の身を神託を受け入れる容器と化してしまった状態。神託というインプットを自分の身を通じてアウトプットするためのエクスタシー。なんでもかんでもスマートに、クールにこなそうとする現代人とは大違いですね。
僕はもっと興奮したり陶酔したりしないとだめだと思います。陶酔するくらいに自分の身の感受性を解放してはじめて見えてくるものがあります。何より自分の身を投げだして、自分の身をもって感じることが必要。オブラートに包まれたようなものを頭で安全に理解しようなんて魂胆じゃ大したものは得られません。

機械的未開人

こういう「呪」とかの話を書くと、ただ、それだけであやしいとか感じる人が多いんですよね。それ、単なる無知です。

呪的な方法っていったって、何か超自然的な力があるはずもない。単にいまより感受性に優れて、かつ、自分たちの感覚を通じて得た情報をその感覚を残したまま組み立てる構想力に勝った古代人が、現代の人間が忘れた人間の力を信じて使った方法が呪にすぎません。極論すれば、アフリカの人の視力が異様に高かったりするのと変わりません。さらにそういう構想力が、夜の星空を眺めてそこにオリオンやペガサスの姿を見た人びとの能力だと理解すれば、なんらあやしいところはない。
それを「呪」と聞いただけで、そこに何か超自然的なものを見てしまうことのほうがよっぽど非科学的で、未開人的です。

そうなんですよね。情報がいくら増えても、それを自分の身に引き受けられず、使いこなせず、ただ、それらの量的圧力にストレスを感じて圧迫されてるだけの現代人って、夜の星空に神話世界を映したり、四季の移ろいを家の中まで映し込んだりした昔の人たちに比べて、はるかに未開人的です。機械に囲まれ、機械的な行動しかできなくなってる機械的未開人。

穢土があるから浄土がある

それなら、ちょっとばかり常道と外れた行動でも「自己貫徹的」あるいは「自己投棄的」な誠実さをもって一心に前に進む積極さをもった「狂」の姿勢のほうが大事だと思うし、そのなかで何かに対して一心不乱に陶酔することで何かを得ようとする「若」の姿勢があってもいいと思う。そうしたなかに和とバランスをとる荒の精神が復活してくるのではないかと感じます。

穢土があるから浄土がある。穢を排除すれば浄もまた失われるのでしょう。そうなると、もう残るは地獄のみ。果たして、そんな状態をこれ以上追及することに意味はあるのでしょうか。

自分の感覚を信じて(思いこみではない)、計算、制御、秩序、計画、常識、形式知、マニュアル、ルールの外の世界に出てみることが、いま非常に大切になってきているのではないかと感じます。

   

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