感受性と行動力

風邪をひきました。発熱と咳で月・火曜日はほとんど動けず、どうしても外せない仕事の所用に顔を出した程度。ほとんど寝て過ごしました。今日は熱も37度前半に下がってすこし楽になりました。

というわけで、外部からの風邪の菌の侵入に身を犯されるのはつらいですが、その一方で、僕らはもっと外部からの刺激を自分の身で引き受ける努力をしていかないといけないのでは、と思います。

まず、情報に対してよそよそしすぎてはいけない。
そして、インプットばかりでアウトプットがないといけない。

外部からの刺激を自分の身で引き受ける努力というのは、インプットの問題ではなくアウトプットのほうの問題です。受け入れるというのは実はいったん引き受けた情報を編集・変換して外に出す作業をいうのだと思います。

なぜシャッフルディスカッションがブレイクスルーにつながる場合があるのか?」でも書いたとおり、膨大な情報を前に右往左往としたままになるのではなく粗雑な形でもいいのでそれをいったんストーリー化して自分自身で咀嚼することが大事。物語化・文章化することで、仮想的にでも情報を追体験できる。情報を再生して、情報化される前の生の情報を感じることができる。それには自分自身で情報に動きを与えるよう、編集・変換作業を経ないといけない。情報を感じる、身に引き受けるためにはインプット以上にアウトプットを重視しないといけないのだろうなと感じます。

自分で学んだこと、感じたことをもって自分がどう生きるか

と、ここまではまぁ、これまでも書いてきたこととそう変わりはありません。
ただ、最近はそれに加えて、人間がもつ感受性そのものをもっと拓いてあげる必要があるのではないかと思うようになりました。外部の物事にいろんなことを感じ取ったり、自分が感じたことを素直に積極的に自分の行動に結びつけるという基本的なところがなってない人が結構いるんだなと感じることが多くなったので。

視野は広くを意識して」で書いたように、「疲れる」より「憑かれる」ということが大事なんだと思うんです。でも、多くの人が何かをするのを必要以上に面倒くさがり、何かをしなくちゃいけないような情報のインプットをあらかじめシャットアウトしてしまっているようなフシがあります。学ぶということや、感じるということに憶病にもなっているし、そこに価値を見出せなくなってしまっている。

社会的な損得感情とは別なところで、学んだり、何かを感じたりすることに対して重きをおくことができないんですね。勉強は何の役に立つかと問うのではなく、自分で学んだこと、感じたことをもって自分がどう生きるかを問うことの方が大事だと思うんですが、そういう風に学習や自分の感覚に価値を置くことができなくなっている。社会があまり成果主義一辺倒になってしまっていたり、それと同時に学校での学びがあまりに職業訓練的になるすぎてしまっている影響もあるのでしょうね。そこに情報化社会において、情報入手・蓄積のコストだけはやたらと低くなってしまっているから、インばかりが増えてアウトすることが追い付かない状況に陥ってしまっている人がたくさんいるんでしょう。

行動の制限、感受性の鈍化

でも、情報って本来そんな風にプレッシャーを感じるような代物じゃないと思うんです。むしろ、それは行動を促進するきっかけになるものであるはずです。学ぶ、感じるということ自体に本来行動がついてくる。情報の多さにプレッシャーを感じるのは、自分でアウトプットである行動を制限してしまっているところに要因があるんじゃないかとも感じます。

アフォーダンスの話にしても、今年になって紹介した本ではニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ベルンシュタイン『デクステリティ 巧みさとその発達』やエドワード・ホールの『かくれた次元』にも関連することですが、人間が知覚・認知しているものというのは頭で意識しているよりも遥かに広いスコープをもっているはずです。そうしたものが本来は行動を促進してくれていたはずです。

それなのに、いまは言語化された情報ばかりを頼りに生きてしまっている。そうすると、意味を捉えないと行動ができにくくなるし、一方で本来なら多様な意味=価値を知覚している身体的な情報への感度が鈍ってくる。他人の口調や顔色から、相手の体調や機嫌を察して、その背後に潜むニーズに対応するとか、街中を歩く人々のふるまいから景気の動向を読むとか、そういう感受性が働くなるのだと思う。

判断材料が多すぎて判断できない

繰り返しますが、本来はインプットとアウトプットはある意味セットだったんだと思います。情報のインに対して行動というアウトがある。行動を促す意味において情報は価値を有していた。

いまは、どうもその関係性が崩れて、アウトをもたない膨大なインが発生してしまっている。そこに情報へのストレスが発生してしまっているのではないでしょうか。
ただ、それはインの量の問題ばかりではなく、行動することへの覚悟がない人が増えすぎたということでもあると思うんです。

石橋を叩いても渡らず、みんなが渡るから渡る。あるいは、渡っても平気だということが数量的、科学的に証明されないと渡らない。あるいは、渡れるという事例を見せてくれとか。「みんなが渡る」「数量的・科学的証明」「渡れるという事例」などという追加情報が与えられてはじめて渡るかどうか吟味をしはじめる。そう。それでも、まだ渡らないんですね。判断できずに情報を求めるくせに、判断材料が多すぎて判断できなくなる。もはや情報の側の問題ではないんですね。

アウトプットしてはじめてインプットは意味をなす

情報を元にどう判断するかなんてことは、そもそも情報と行動の関係性を理解できていなければ、いくら情報を増やしても仕方ないはずです。そのためには実際に行動をした経験を増やすことで、その経験において情報と行動の関係性に関する知識を自分の身に蓄積していくしかない。

それが情報編集の本来的な意味だと思う。

普段から様々なインプットに対して、自分がどう対応するか、何をアウトプットするのかということを当たり前のようにやっていれば、自分の行為に対する相手のフィードバックも含めて、インプットの意味をより理解できるようになるはずです。インプットは自分自身が行うアウトプットと結びついてはじめて、自分にとって意味のある情報になるのだと思う。それが情報を自分の身で引き受けるという意味です。

本はむずかしいくらいがいいのかも」で、本を読む際にも「読んだ内容を自分の文脈のなかに取り込む形で編集的に咀嚼しないと、ただ他人の知識に触れただけ」と書きましたが、外からの情報は自分の体を使って行動に移し替えてあげないと意味として自分の身に蓄積されないんだと思います。

けれど、インプットばかり、それも言語化・形式化された情報ばかりを相手にしていると、いつまで経ってもインプットと行動が結びついてこない。つまりは行動を促進する意味あるものとして情報を捉えることができない。行動ができなければインプットとしての情報に価値を感じることはできません。そのうち、どんどん情報に対する感度が鈍ってくる。感受性が鈍化してきます。

インプットしたものを処理できないのは、アウトプット能力に欠けるから

何よりマズイなと思うのは、自分の感受性の鈍さに気がつかない人が多いことです。
感受性が鈍いというのは、さっきから書いているように感じたままに行動できないこと、表現できないことをいいます。他人のニーズを察することができなかったり、相手のニーズとのズレに気づかなかったり。相手のニーズに応える自分の側の行動が組織化されていなければ、たとえ目の前に相手のニーズがぶら下がっていても見逃してしまいます。

アフォーダンス理論を逆転して捉えるならば、それが行動のきっかけとなりうるから情報には意味があるといえるのではないでしょうか。行動に結びつけられなければ、実は感じることもままならない。行動力のバリエーションの低下がそのまま感受性の低下に結びつく。インプットしたものを処理できないのは、アウトプット能力に欠けるからです。

いまは行動のきっかけを、自分の感受性に頼ることよりも、何か形式的なものに頼る傾向が多いんじゃないでしょうか。こうだからああなる、ということが見えている中での行動が多いのではないかと思います。だから、答えとしての情報を与えられない限り、行動ができない。しかも、それが答えであるがゆえに行動しなくてもよいと判断するケースもある。結局、どうなるかというと、単に行動を伴わない議論の応酬、無駄な会議、単なるおしゃべりばかりが増える。何も前に進まなくなる。

情報整理の本当の意味は?

こういうところに、組織的な行動のスピード感の違いが如実に出てきてしまっているように感じます。

よくできた組織というのは、各従業員の積極的な行動を促す点に最大限の配慮をして、組織文化的にも、働く環境的にもうまくデザインされているのだろうと感じることが多い。必要以上に議論をしたり、情報の収集・分析に時間を費やすことなく行動させる。そこに配慮されているかどうかで組織のスピード感の差は歴然たるものがあります。そして、何より行動に重点が置かれている組織のほうが情報に圧迫されたストレスからも解放されているので、元気がいい。各従業員も「やってみればわかる」という姿勢が身についているので、積極的にチャレンジすることに憶病でない。

やってみればわかる。いや、本当はやってみないとわからないんです。
情報というのは自分で動かしてみて、情報に呼吸をさせてみてはじめて価値をもつものですから。そうでないと死んだ情報の山に埋もれて人間の方が窒息してしまいます。

情報整理。
単にそれを情報をきれいに分類して蓄積しておくことだ思ってたら大間違いですよ。本当の情報整理はあくまで、情報と自分の行動をその結果の体験を介して結びつける作業ですから。

長くなりましたので、この続きは「荒・狂・若」で。

  

関連エントリー


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック