物そのものを使ったKJ法

ある程度まとまった数の物を一時に集中して見るというのは、普段見えていない物の構造を理解するためには、なかなか良い方法だと思います。

蒐集された100個の物を目の前にして、それぞれの特徴を感じながら分類を行っていく。そうするといくつかの特徴の類似が見えてきて、さらに類似する特徴を有した物同士の使われ方や使う人のことに目を向けると、なぜそういった類似が必要なのかが見えてきたりします。少数の物だけを見たのでは見えない特徴が100個の物を並べてみることで見えてきて、さらにそれが利用者の行動などに結び付いた合理的な形態だったりすることがわかってくる。そういう物の見方も時にはする必要があるなと思います。

100個の物を並べて見比べる

仕事のことなので詳しく書けませんが、特定の商品群を無作為に集めてきて、それを一気に比較してみる。その時のポイントはそれぞれの物の相違よりも類似に着目することです。頭で理解している類似点よりも、直観的に感じ取れる視覚的な類似や構造上の類似に目を向けるといい。そうすると、普段見落としていた物の形状に何かしらの意味がありそうだということがわかってくる。

この時点ではその意味が具体的にどういう意味かを考える必要はないと思います。意味を頭で理解してしまうと、感覚的に捉えた類似性が見えなくなってしまうこともあるからです。とにかく、頭で理解してしまう前に、その類似を元に100個の物をグループ化していくんです。

それぞれの物の特徴は複数あることが多いので、分類すると一言でいっても、どの特徴を軸にするかによって切り口は変わります。だからこそ、どのように特徴を捉えるかは注意した方がいい。
そこで優先すべきは最初から頭で理解できている特徴の類似よりも、なぜ似ているのかがわからない物同士をつなげるような類似を大切にしたほうがいいのだと思います。その隠れた類似には何かしらの意味がある。そして、それは普段見落とされている意味であることが多いから。

物そのものを使ったKJ法

そうやって類似する特徴をもった物同士をグループ化しながら、さらに複数の特徴を用いてグループ同士の構造をつくっていく。つまりは物を直接使ったKJ法です。

物そのものが大きすぎて、机の上に並びきらないのであれば、写真に撮ってプリントアウトしたものを使ってもいいと思います。物が持っている機能的な意味だとか、頭で理解している形状の意味などではなく、あくまで見た目での直観的な類似を元に、100個の物を分類していくんです。
慣れないと、つい最初から理解している特徴だけで分類しがちです。ただ、それは頭で考えたことだけを使って分類しているのであって、実際の目の前の物を見れてないんですね。そういう見方ができない人は、普段、いかに自分が物を見ていないかということに気づくと思います。

そうやって100個の物に対して、それぞれ自分の目で特徴を捉え、自分の目で複雑に絡み合った物同士の特徴の関係性を整理し紐解いていく。それは100個の物が語る物語を紡いでいく作業にほかなりません。もちろん、先に書いたように切り口が変われば、物語は変わる。だからこそ、自分の目で個々の特徴を捉え、自分で整理することが大事だと思う。

「考える」を具体的な作業に変換する

KJ法と同じで、そうした物語を見いだすうちに、物のデザインに関して今まで思いつかなかったような発想が生まれてきます。

発想法。それは自分の感じたことを手を動かしながら整理し、構造化することで、全体を説明する物語を見つけていくといった具体的な作業です。具体的に目の前にあるデータを並べたり組み合わせたりしながら、既存の見方に必要以上に頼ることなく、自分の感覚や類推を重視しながら、自分なりの筋道を組み立てていくこと。その過程に発想が次々と生まれてきて、発想同士の創発が芽生えるところにより価値のある発想が生まれてくるのだと思います。

よほどの天才でもない限りは、「考える」を頭のなかのあいまいな思考にとどめず、「考える」を具体的に目で見え、手で触れられる作業に変換することではじめて単なる思いつきの発想以上の発想ができるようになるのだと思います。

強制的に視点を変える

こういうことはたまにはやってみたほうがいいと思う。僕も自分自身でそういう体験をしているからこそ、「視野は広くを意識して」で書いたようなアキッレ・カスティリオーニの物の蒐集癖がデザインにどういう意味を持つかということが理解できる。

普段通りの見方でしか物を見ないと、実は物を見ているのではなく単に自分の頭のなかのイメージを見てしまって、多くのものを見落としてしまう。たまには強制的に別の見方ができるよう、普段とは違う立ち位置に自分を置いてみた方がいいと思います。そうしないと、どんどん自分の見方が凝り固まってしまって、見えているものまで見えなくなってしまうと思うから。
100個の物を並べると、それだけで普段見ている光景とは別の光景が目の前にあらわれます。ましてや、それを既存の分類法を使わず、自分なりの分類をつくって、全体の構造を語る物語をつむぐとなると、それだけで見方を変えざるを得なくなる。そういう状況に自分を強制的に置いてみるというのは大事なことだと思います。

見えないものを見えるようにする。それは物事の側の問題ではなく、あくまで物事を見る人間の側の視点の問題なんだろうな、と。

  

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