私は「面白い」と感じたら何でも顔を突っ込み、手を出してしまう。いつの間にか熱中している。「面白い」と感じる、「興味を持つ」という行為のハードルがとても低いのだろう。こうやって好奇心旺盛で生きていくのは、時に体力気力がついていかなくて疲れると感じることもあるが、やっぱり楽しい。
前にも書いたけど「疲れる」よりも「憑かれる」がいいよね。何かに取り憑かれたように好奇心を揺さぶられる感じがいい。
そもそも「疲れる」は「憑かれる」が語源だそうです。
「憑く」も「着く」も「付く」も「就く」も、みんな「ツキ」のファミリーだそうです。ツキがあるとかないかという「ツキ」。そして「ツキ」は「月」です。
月に憑かれてツキを自分の側に手繰り寄せたいじゃないですか。そのためには好奇心旺盛のほうがいいと思う。楽しいと思います。
感謝、感動、尊敬
前から、ものを作る人にとって大事なことって「感謝、感動、尊敬」なんじゃないかと思っています。「もの」といっても物理的なものだけじゃありません。サービスでも、組織でも、コミュニティでもそうだと思う。感謝というのは、他人の仕事に感謝すること。他人との関わりに感謝すること。
感動というのは、他人の仕事=作品に感動すること、拍手で讃えること。普段の何気ない物事にも感動を見つけ出すこと。
そして、尊敬というのは、自分以外の他人、自分とはぜんぜん違うことをする他人に敬意をもって接することです。
自分の外にいる人に対して「感謝、感動、尊敬」する
この3つに共通することって、自分の枠のなかに閉じこもっていては感謝も感動も尊敬の範囲も狭くなってしまうということだと思います。自分と似たような人に、感謝したり、感激したり、尊敬をもって接することはそうむずかしくはありません。でも、大事なのは、自分と違った考えをする人、違った分野で仕事をする人、違った仕事の仕方をする人に対して、感謝、感動、尊敬の姿勢で接することができるかだと思います。
なぜ大事だと思うかというと、自分がなにかを作るときに本当に役に立ち、自分の視野や発想を広げてくれるのは、そういう自分の外側にいる人だからです。そういう人たちとのコラボレーションができないと、いいものはできてこない。コラボレーションをするためには、相手に対して、「感謝、感動、尊敬」をもって接することが必要だと思います。
見所より見るところの風姿はわが離見なり
そのためにはやっぱり自分の外に対して目を向けないといけないと思うんですね。<「ちがう」という時代に「同じ」をさぐる!>です。外に目を向けて自分と違う世界と接しながらも、そこに「ちがう」を感じるのではなく、「同じ」を見いだしていく。そういう目を持つことが大事かな、と。でも、それってある程度、意識的に自分の好奇心を刺激していないと、つい人間というものは怠惰になって自分の殻に閉じこもってしまいがちなんですよね。
言葉は頭を整理する道具ですが、音だけを気分で使っていると、頭の方がそれに馴れてきて、聞き馴れぬ言葉を聞いても、「それ何?」と問いかけなくなります。(中略)その記号の意味を問う、という自然な心の働きがなくなってしまいます。心から好奇心が失われ、心になまげぐせがつきます。
そのとき、世阿弥のこんな視点がもてたら、と思います。
見所より見るところの風姿はわが離見なり。わが眼の見るところは我見なり世阿弥『花鏡』
舞台に立った自分を外からみる「わが離見」。そういう風に自己を客観化して、自己を含む環境を包括的に高みから見ることができる視点がもてるといいだろうな、と。舞台に立ったその人は観客はどう見ているのかを、観客席からの自分の目で見るのです。
誰もが舞台の上の舞人なんですね。隠れたつもりになっても無駄。他人はあなたが見せたいと思っている部分ではなく、むしろ隠している部分を見ようとするのですから。人は空白にこそ、関心がある。だからこその「秘すれば花」です。
好奇心を刺激するには具体的な行動が必要
それから、自分の好奇心を刺激するってのは、具体的な行動なんだと思う。月並みだけど(いや「月」並みだからこそ)、こういうことが大事。
- 普段と違う分野の本を読む
- いろんなものを手にとって使ってみる
- いろんな展覧会に足を運ぶ(特に普段行かない分野の)
- 知らないところを旅行する
- 知らない分野の話に耳を向ける
- 積極的に異分野の人と仕事をする
- 自分の仕事の幅を広げるチャレンジをする
イタリアのデザイナーにして建築家であったアキッレ・カスティリオーニが世界中からいろんなガラクタのようなものを拾ってきては、自分のデザインスタジオに蒐集し、日々、いじくりまわして遊んでみては、その物の形に埋め込まれた人びとの振る舞いを探っていたという話は前にも書いたとおり。そうやって自分の好奇心を常に逞しく保つと同時に、自分がデザインしたものに対する人びとの好奇心が刺激されることも常に意識していたそうです。それこそ、こういう姿勢こそ、尊敬に値しますよね。自分もがんばらなきゃと思います。
カスティリオーニにおいては、デザイナーと利用者を繋ぐ「想像力」と「好奇心」は常にデザイン行為の基本にあったが、展示空間のデザインも「すべて好奇心を基準に組み立てられていた」のである。
好奇心。ものを作る人は大事にしないといけませんよね。それには他人に対して「感謝、感動、尊敬」をもつ姿勢が何より大事なのかなって思います。
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この記事へのコメント
遼
「疲れる」は「憑かれる」が語源であることを、初めて知りました。「ツキ」のファミリーも。好奇心を持って様々なものに取り組んでいると、思いがけないところから自分が望んでいるものがやってくることがあります。こんな時、とても楽しいと思いますし、感謝の気持ちも生まれます。
自分と異なる仕事をしている人や異なる考え方の人に触れると、いろいろな刺激を受けます。異なる考えを受け入れがたい、理解しがたいと感じる時もありますが、そんな存在こそ大事なんですよね。自分が他者を見る時の視野も意識したいですが、世阿弥の自己への客観的視野も大事にしたいです。異なる存在に触れて、自分がどう思っているのか。一方的な考え方で捉えていないか。それも意識したいです。
tanahashi
コメントありがとうございます。
時々読ませてもらってます。
遼さんのブログを読むのも、僕にとっては自分の外と触れることの一環ですね。
その意味では、遼さんにも感謝です。