「ちがう」という時代に「同じ」をさぐる!

デザインとは「生活文化をつくる仕事」だといったのはドイツで活躍するデザイナーの阿部雅世さんです。原研哉さんの対談『なぜデザインなのか。』のなかでの発言でした。最近、読んだ『かくれた次元』では「人間は文化というメディアを通してしか意味ある行為も相互作用もできない」というエドワード・ホールの言葉もありました。

文化というのはいったい何だろう?
そんなことを思いながら、もっと文化というものに関して様々な人の見方を知っておこうという活動の一環として、いまは網野善彦さんの『無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』を読んでいます。

いまでは穢れや貧窮など負のイメージがつきまとう「無縁」や「公界」という言葉の背景に、かつては人間の本質的な自由につながる「無縁の原理」が存在したことを解明したことから、中世史の流れを切り拓いた画期的な論考といわれる一冊です。「芸能の多くは「辻」と「道」と「門」とで発達してきたという説がある」と『フラジャイル 弱さからの出発』で松岡正剛さんが語ったように、世間から縁の切れた無縁の場では、様々な芸能民や職人たちが行き交い暮らしており、納税や通行料の支払など様々な義務から解放された自由があったといいます。

反論だけするのは意味があるの?

非常におもしろい本で、本論はほぼ読み終えるところなのですが、この本には、やたらと長い補注と補論がついています。370ページほどの本のうち110ページほどがそれにあたっている。

何かと思ってすこし読んでみると、網野さんの新しい説に対して既存の説の側から様々な反論があって、それに対して網野さんが補注と補論を書いているわけです。補論のほうは読んでいませんが、補注をみるとその反論というのが単に自分たちの説を守るためだけの論のように感じられるのです。

僕は網野さんの補注だけを読んだだけで反論が本当にそうした性質のものかはわかりません。なので、網野さんの補注で反論として取り上げられた方々が以下で僕が述べることに当てはまるとは考えていません。ただ、なんとなく浮かんだ連想のきっかけとしてこの話を書いているだけなので、そこは誤解のないよう。

ただ、新しい学説に対して既存の説の側から重箱の隅をつつくような反論があるのは、学問の分野ではよく見受けられます。反論することで何か従来の説の良い点をあげてくれるのならいいのですけど、ただ単に反論しているものも少なくありません。それって何か意味があるんでしょうかと素人目には思います。

いや、学問の分野だけじゃないですよね。ビジネスの現場でもあることです。他人の意見に否定だけして、自分にそれ以上の意見があるのかといえばそういうわけではない。それって何か意味あるの? なんですね。

前置きが長くなりましたが、今日はそのことを書いてみようかと。

新説の単なる否定は新しい見方を生みださない

新しい説というのは、基本的に従来の説が見落としていたり、捉え間違えていた点を修正して、ある事象に新しい見方を与えてくれるものです。網野さんの説であれば、従来、単に穢れの場として考えられた無縁の場を「無縁の原理」が支える自由の場でもあったことを見出した点などがそれです。

簡潔に図にしめすとこんな風に描けます。



一方で、新しい説に対して、従来の説を信じる側の人間が反論するのは、こうなります。



どちらもある説に対して"NO!"といっている点では変わりません。
ただ、新説が新たな見方を付与するのに対して(つまり、"NO!"ということ自体は目的ではない)、新説に対する反論は旧来の説からみた新説の欠点をあげるばかりでなんら新しい説を付与しないことが多いと思われます。
それに新説は不特定の人びとが共有するものに対して新しい考えで立ち向かっているのに対して、新説への旧説側からの反論は特定の人の特定の説への反論になってしまうことも問題かと思います。
こういう「出る杭は打たれる」的な傾向が、新しい発想が出てきにくい社会の雰囲気を作ってしまっているんじゃないでしょうか。

別に旧説の良さを明らかにしたいのなら何も新説を否定する必要はないんですね。
もっと単純に従来の説のよいところをあらためて説明しなおせばよいだけです。図にすると、こうですね。



従来の説のよい点をあらためて明確にする中で、比較のために新説の問題点をあげるくらいはかまいません。ただ、そうではなく、新説の否定を主目的にすることに何の価値があるのかがわかりません。

答えは1つだけという前提が間違っている

本来なら、旧説、新説が出揃ったところでさらに説を重ねるのであれば、こうであるのが理想ではないでしょうか。



旧説、新説並べてみて、両者を包含するような形でさらに新しい見方を加えた説を立てる。それが両者の矛盾を止揚するような弁証法的な形であってもよいし、アジア的な不ニのように両者の矛盾を抱えたまま両者を飲みこむような形であってもいと思います。

そもそも、確実な答えは1つだけという間違った前提があるのではないかと思います。実際は、答えというのは見方を変えればいくらでも作ることができる

物事には様々な見方が可能です。事実とは、単にある人がある視点に立って捉えた見方でしかありません。前提となる視点と見方を共有していれば、異なる人にも同じ事実が見えるかもしれませんが、そうでなければ見る人によって異なる事実があるほうが自然です。それぞれの人がそれぞれの見方で違った事実を見ているからです。

事実とはフィクションである。

歴史などはまさにそうです。昨年の歴史を語ろうと思えばいくらでも語れる。語る方法はいくらでも作ることができます。そう。答えとはそもそも作り物です。フィクションです。

その意味でも、フィクションとノンフィクションに本当は明確な区別などはないと思います。それは単なるジャンルだといってよく、作り物とそうでないものという意味はないと思います。
フィクションとして書かれた小説も作者が自分で感じたこと、自分が見ているものを表現する意味においては事実です。それは記者が作成するニュース記事などと比べても、事実かどうかという視点ではそれほど変わらないはずです。表現のジャンルとして、何に関する事実を捉えたものなのかだったり、記述者が見た事実を他人が共有する際の方法が異なったりするだけだと考えたほうがいいのではないかと思います。

事実は作者が自分に嘘をつかない限り、いくらでも作成することができます
歴史もまた、そうした解釈のひとつであるし、科学だって同じです。常にそれらは単にある人がある視点に立って捉えた見方でしかありません。科学だってある前提が与えられた上でのある事象に関するある特定の見方による解釈、説明です。その前提を共有した上で、それがある事象をもっともうまく説明できているものを科学的な法則として認めているにすぎません。

前提条件を共有した上での敵味方の戦いが成り立つのはゲームである。遊びである。ゲームや遊びをそれだと認識することなく興じられるゲームや遊びはつまらないだろう。ゲームや遊びはルールを互いに認識し合ってこそ楽しめる。

事実とはそもそもフィクションなのです。

もっと良いアイデアを示せば良いだけ

そうした中で社会において、どれだけ多くの有意なフィクションを生み出せるかが本当に意味あることであって、どっちが間違ってるとか正しいとか論争することにはあまり意味がないと思うのです。それはただの水掛け論になってしまいます。それなら両者を包括的に取り込めるような、もっと別の新しい見方がないかを探ることに時間を費やした方が社会的には有益なのではないでしょうか。

「他人を批判しない」というのは、前に「ブレインストーミングの7つの秘訣」でも書いたように、ブレインストーミングの基本ルールだったりもします。ブレインストーミングでは批判をせず、アイデアの量を追求します。他人のアイデアから連想された別のアイデアを出すことで、発想そのものを共同作業によって発展させていきます。先に示した図のうち最後の4番目の図と同じですよね。既存のアイデアを元にさらに良いアイデアをみんなで生み出していく。そこで既存のアイデアを否定する必要なんてまったくありません。それよりもっと良いアイデアを示せば良いだけですから。

ブレインストーミングは参加者全員でどれだけのアイデアを出せるかが目的となる共同作業です。個別のアイデアのうち、どれが良くてどれが悪いかなどは問題にはなりません。

どっちが良いかではなく、もっと良いものを

社会的な視点で捉えた場合にも同じことがいえるのではないかと思うんですね。誰の論が正しく誰の論が間違っているかなんて問題ではないんですね。社会全体の視点に立った場合、価値を有する論がどれだけあるかが真の問題なのだと思います。

これは論ではなくて、商品とかでもいっしょですよね。2つの商品を比べてどっちが良いかということよりも、本当はその両方の良さを兼ね備えた商品が欲しいわけです。

お互いに相手を否定しあうというのは、より大きな視点で捉えた場合、社会あるいはその場に参加する人びとの全体の利益を向上する可能性を損ねる行為なんじゃないかと思います。特に他人のことを否定ばかりしている人は、社会に貢献できていないという意味で、自分自身も評価されにくくなるという意味で損をしてしまっているのではないかと思います。他人を否定する時間があったら、その価値を肯定できる様々なものと出会いながら自分を磨いていくことに時間をかけたほうがいいのかな、と。

「無縁」とか「公界」というのが、そもそもそんな風に社会を公的なもの、共有のもの、私有されていないものとみて、そこに自由をみる見方なんですね。私有のない無縁に自由を見る。自由というと私有することで自分の思いどおりにしようというのが現代的な発想ですけど、それとは正反対の自由が「無縁の原理」のなかにはあったんですね。
そんな意味もあって網野善彦さんの『無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』から、このエントリーを書きはじめてみたわけです。

「ちがう」という時代に「同じ」をさぐる!

これはバーバラ・M・スタフォードの『ヴィジュアル・アナロジー つなぐ技術としての人間意識』の本の帯を飾ったキャッチコピー。
「違い」ばかりに着目して他人を否定しがちな時代ですが、本当に有益なのはもっと大きな世界に目を向けて自分たちとは違う分野に「同じ」見つける目をもつことではないでしょうか。
そういう姿勢ではじめて本当の意味でのコラボレーションが機能するんだと思います。

  

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この記事へのコメント

  • Hiroyuki Ishima


    はじめまして。

    「反論だけするのは意味があるの?」に深く共感しましたので、思わずコメントさせていただきました。

    このような話題を耳にしたとき、弁証法という対話の技術を思い出します。テーゼ(説1)とアンチテーゼ(説2)を、いかに綜合し、ジンテーゼ(1と2を綜合した新説)を生み出すかがポイントになりそうです。

    ついつい、テーゼ派とアンチテーゼ派に分かれて、ディベート(討論)をしてしまいがちですが、テーゼ派であろうとアンチテーゼ派であろうと、それらを俯瞰して、よりよいジンテーゼを議論できるような組織になりたいと、日々思っております。

    実践することは、非常に難しいですが、このような姿勢を持ち続けることによって、すこしづつ改善していくものだと思っています。

    2009年01月19日 17:56
  • tt

    はじめまして。
    このお話で想定されている「反論」というのが具体的にどのようなものなのかは分かりませんが、新説への反論はむしろ、その説の欠点を明らかにし、ブラッシュアップする上では、それなりに有用なものなのではないでしょうか?
    (つまり、新説と旧説の激突から新説2が生み出されるというような)

    もちろん、「新説の単なる否定」が大いに生産的な態度だなんてことは思いませんが…。
    2009年01月19日 23:53
  • tanahashi

    > Hiroyuki Ishimaさん

    そのとおりですね。
    本文でも書いてますが、弁証法もあり、アジア的な不二もありですね。

    > ttさん、

    批判だろうと、いっしょに中身をよくしようというコラボレーションの気持ちで行うのなら、もちろん、いいことだと思いますよ。
    2009年01月20日 01:31

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