これは、イタリアのデザイナー兼建築家であったアキッレ・カスティリオーニの言葉です。
照明器具そのものの形よりも、それが作りだす光の形にこだわる。当たり前といえば当たり前のことかもしれませんが、これができるデザイナーってあんまりいないんじゃないのかなって思います。はっきりそれを口に出して表明し、さらに実際にデザインする際にも余計なものを極力そぎ落とそうとする人はなかなかいないんじゃないでしょうか。
「もしこのテーブルの上に乗っているものがすべてテーブルなしでも同じ高さにいられたら、ランプなしに光が出せたら、こりゃあ、なかなか悪くないよ」
こんな風に究極的にはその効果だけをとどめて、物の存在はなくてもいいといえるようなデザイナーってなかなかいないですよね。
この本の主人公であるアキッレ・カスティリオーニという人はまさにそういう希少なデザイナーだったようです。


分析的思考によるデザイン
よくデザイナーは感性的な思考が得意で、論理的に積み上げていくことが苦手だとかということをごく当たり前のようにいう人がいますが、カスティリオーニの仕事を知るとそんなのはウソだということがわかります。本当の意味でデザインをしようとすれば、感覚的・アナロジー的な発想と分析的・論理的な思考の両方が交互に必要にならざるをえない。その片方の論理的思考ができないとしたら、それはデザインじゃなくただのお化粧直しです。
照明に関して、カスティリオーニはメモを残していて、そこに既存の電球の分類からはじめて、光の当て方を5通りに分類し、その組み合わせが一般的な照明器具の分類だとしています。
さらに、室内における照明器具の空間的な位置(天井、吊り、壁、卓上、床上)を分類し、それが昇降可能だとか光線の向きを自由に変えられるとか、光度の強弱を調整が可能だとかを付加的なパラメータとしたうえで、室内の照明を考える際にはこうした変数を「何を、どのように、どれだけ見たいか」という目的に応じて組み合わせていくのだと考えているのです。
そうした照明に対する分析的な思考のみならず、
近視眼的に照明器具ばかりを眺めずに、彼は照明器具を常に家の中の室内環境、そしてその内部での人の具体的な生活行為に即して考察し、デザインしていたことがわかる。多木陽介『アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン』
という風に、照明をより大きな「人びとの暮らし」という包括的な視点で捉えデザインしていたのです。
インテグラルプロジェクト
包括的な視点という意味では、カスティリオーニは自分の仕事のあり方を「インテグラルプロジェクト」と定義したそうです。デザインとはグループによる協力作業、集団的な創造行為であるといい、デザイナーがそのすべての段階に関わっていくことを当然と考えていたようです。
外形の化粧直しとしての仕事の正反対で、その実現のためには機能、メカニックからマテリアル、最終的なフォルム、さらには店舗のデザインからパッケージング、広告、販売担当者への指導に至るまで本来の自分の担当以外にもすべてに注意力と関心を向けること、この「すべてを考える」という総合的な視野、思考力がデザイナーだけでなく、すべてのクリエイターには要求されるとカスティリオーニは考えていた。多木陽介『アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン』
まさに「みんなで手を動かしながら考える」です。
そうでないと、包括的な視点でのデザインなんてできるはずがありません。企画は企画、設計は設計、開発は開発、販売は販売なんてバラバラにやっていたら創造的な仕事なんてできるわけがありません。
技術者とのミーティングを行うだけでなく、セールスマンや店頭の販売員も巻き込んで仕事をするのがカスティリオーニの仕事のスタイルだったそうです。
カスティリオーニとデザイン思考
ようするに、カスティリオーニのデザインの根幹にあるのは、物をデザインするのではなく、物とその効果と人との関係をデザインするということなんだと思います。いま「デザイン思考」と呼ばれている考え方がすでにカスティリオーニのデザイン思想のなかにすべてあるといってもかまわないと思います。
ごくまるで現代の人類学者の言葉のような95年の「学生たちへの助言」にも「人々の当たり前な身振りや慣習順応的態度、人が気にもとめないようなフォルムを批評的な目を持って観察することを」学びなさい、とあるように、世界を前に、分析し、いつでも批評的精神で物を見よ、目の前に提示された現実を鵜呑みにせず、ごくありきたりになってしまっている物のあり方をもう一度批判的に見直し、そうでない物事の在り方を探すための足掛かりにしろということなのだ。多木陽介『アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン』
これなんて僕がいつもこのブログで書いていること、そのまんまですよね。
僕はただデザイン思考と呼ばれているものを学んで、そういうことが言えるようになっただけですが、カスティリオーニは自らそこに辿りついている。それがすごいなと思います。
想像力と好奇心
僕がこの本を読んで興味をもったのは、いわゆるプロダクトデザイナーとしてのカスティリオーニより、トリノの市街の照明計画を手がけたり、さまざま展示会の会場デザインを担当するカスティリオーニでした。いわゆる建築家寄りの仕事です。

僕も大学時代に建築を勉強していたのですこし想像もできますが、建築というのはより包括的な感覚・分析が求められる分野です。人の導線、空間の見え方、それから先の照明の話、音響や素材など、さまざまな要素が関わってきます。
カスティリオーニが「自分に気に入るようなかたちで他人を住まわせるなんて不可能です」といい、人の家のインテリアをデザインするのなんてほとんど無理といっている感覚もなんとなくわかる。人の暮らしということを本当に考えれば考えるほど、デザイナーが完全にそれをデザインするのは不可能だということがわかってきます。特に自分自身が自分の暮らしをちゃんと考えている人であればあるほど。
一方でカスティリオーニは展示会の空間デザインをするときには観客の好奇心を刺激する空間をいかにして作るかということを第一に考えていたようです。
カスティリオーニにおいては、デザイナーと利用者を繋ぐ「想像力」と「好奇心」は常にデザイン行為の基本にあったが、展示空間のデザインも「すべて好奇心を基準に組み立てられていた」のである。多木陽介『アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン』
観客の想像力や好奇心を駆り立てようと思えば、デザイナー自身が常に普段の生活において想像力を磨き、好奇心を刺激していないとできないと思います。
まさに想像力と好奇心をもって「人々の当たり前な身振りや慣習順応的態度、人が気にもとめないようなフォルムを批評的な目を持って観察する」ことが大事です。
カスティリオーニの好奇心
カスティリオーニという人は自分のデザイン・スタジオに世界中から蒐集してきたいろんなガラクタを集めていて、それをいじくりまわしては子供のように遊び、スタジオに訪れた人に、そのガラクタに封じ込められたデザイン思想・人びとの身振りに関する知恵を熱心に語ったそうです。まさに身近な物の形に自ら触れることで、その物が宿した人間の身振りに関する「かくれた次元」を人類学者的な視点で解き明かしたんですね。その話を実際にカスティリオーニから聞いたのが、この本の著者である多木陽介さんです。多木陽介さんは、生前のカスティリオーニを訪ねて何度も彼のスタジオに足を運んだようです。そして、彼が亡くなってからも何度も。
カスティリオーニと何度も話をし、彼のデザインに対する考え方を聞いたそうです。それがこの見事な本に結実している。とてもいい本です。多木さんが撮影したカスティリオーニのスタジオの写真も温かみが感じられてすごくいいです。こんな本を作ってくれた多木さんに感謝です。
それなのに、もしかしてこの本、すでに絶版? 2007年12月に出てまだ1年ちょっとなのに? それとも、amazonで品切れなだけ?
こういうのみると、ほんと、本は「欲しい」という前に買えって思いますね。よかった買っといて。
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