本はむずかしいくらいがいいのかも

最近ひそかに思ってること。それは本ってむずかしく感じるくらいのほうが読む自分にとっては価値があるのかもっていうことです。

むずかしさを感じるのは、それだけ読む自分の側に知らないこと、考えが及ばないことがあるということだと思います。単純に言葉を知らないとか、登場してくる人や物事について知らないとか、書かれていることの背景について知らないとか、いろいろありますよね。あるいは、著者の頭のなかにあるもの、文章として表現されている内容が複雑すぎたり、高度すぎたりして、いまの自分にはわからないというケースもあります。



わからないことに触れられること自体に価値がある

でも、一度読んだだけではわからなくても、そのわからないことに触れられること自体に僕は価値があるんだと思うんですよね。何よりそれは好奇心を刺激してくれます。単に知識としての問題だけじゃなく、作者の体験、感覚も含めてです。
違う人生を歩んでいるわけですから、他人の体験や感覚をそうやすやすとわかるはずがないし、ちょっと本を読んだだけでそこに書かれていることをわかった気になるなんてそもそも他人の人生に対するリスペクトが欠けているなとも思うんです。

本というのは、著者に読ませてもらっているんだと僕は思います。
書く側になる場合は読んでいいただいているという気持ちなりますが、圧倒的に多い読者の立場ではやっぱり読ませてもらっている、学ばせていただいているという感を強く持ちます。それもあってか、読んでわからないことがあると、まだまだ勉強すること、学ぶことがたくさんあるなという気にさせられます。

わからないのは読者の問題

本の種類によってはそういうことも必要なケースもあると思いますが、基本的には本はマスコミではありませんから著者が何らかのマスを代表したような表現をする必要はないと思います。それよりも、僕が読みたいのは著者個人としての体験や感覚、思考そのものです。
なので、それをただ読者にわかりやすくするためだけに、その質を落としてまで内容を加工する必要はないと思う。もちろん、同じ内容なら読みやすいほうが読者としてありがたいですし、ある程度はわかりやすくするのも著者の役目だとは思いますけど、それで伝えようとしていることの中身が著しく変わってしまうなら、その配慮は余計です。それならむずかしくても伝えたいとおりに書いてもらったほうがいい。

そもそも、わからないのは、結局、わかりたいと思ってるのにわかることができない読者の問題でしかありません。教える-学ぶ、伝える-伝えてもらうという関係では常にそうだと思いますけど、結局、教える側、伝える側にできることは限られています。最終的にわかるかどうかはわかろうとする側の問題です。そりゃ、そうですよね。わかるということ自体、そういう個人的な問題なんですから。わかりたい側はわかるよう努力を続ければよいだけです。

何よりわからないことにぶつかって自分の足りないところがわかるくらい、ありがたいことはないと思うんです、本当は。それは本を読んでわかってしまったことより価値があると思う。わかってしまったら、それで終わりですけど、わかりたいと思う気持ちは先につながりますから。

大事なのは読んだ後の自己編集作業

ここを勘違いしてはいけないと思うんですよね。
他の人が書いた書評などを見ると、むずかしいということをまるで本のせいであるかのようにしている人を見掛けますが、うーんって感じます。

本ってただ読むだけじゃもったいないと思うんですよ。自分のなかで読んだことを自分に意味ある形に置き換えることが大事。
読んだ内容を自分の文脈のなかに取り込む形で編集的に咀嚼しないと、ただ他人の知識に触れただけです。そのことに意味がないとはいいませんが、本を読むことですこしでも自分を変えようと思うなら、読んだ内容を自分なりに編集して自分が生きている文脈のなかに取り込むという作業をしたほうがいいと思います。でないと、本当に「わかった」がその場限りになってしまいます。

また、わかったはずのことが、その編集作業に取り掛かってみたら、なんだかわからなくなってしまったというケースもあると思います。それはわかったわけじゃなくて、単に本の著者の説明がうまかっただけですよね。それだと読んだ僕らの側にあんまり変化がない。
逆に読んでてわからなかったことが自分で編集作業をするなかでわかってくることもあります。それが実は本を読むことの醍醐味なんじゃないかなと感じます。

書かれている内容をどう活かすかは読者の責任

読んだあとに編集作業をするのって、外国からの輸入品を港でいったん止めてチェックしたあと、国内に持ち込むようなものです。あるいは、別の喩えでいうなら、稲をいったん苗代で育てておいてから田圃に植えるようなものですね。
本に書いてあることをダイレクトに自分の中に持ち込んじゃだめだと思うんです。そこは実際に対面式で師匠や先生に学ぶのとは違うところだと思います。本の場合はいったん自分で編集して咀嚼したあとが大事であって、港や苗代のなかにある状態ではそんなに意味がないと思います。

書かれている内容をどう活かすかは読者の責任です。
楽しみのため、暇つぶしのために読む場合であれば読んで終わりでいいと思いますけど、勉強しようとか、自分が知らないことをもっと知ろうというので読みはじめたはずなのに、むずかしくてわからなかったという感想だけで終わりっていうのはちょっと変。わからないから読みはじめたわけだから、読んだだけでわかるわけないと思ったほうがいいでしょう。
結局、何のために読むのかということですよね。自分のために読んでいるのであれば、本に文句をいっても仕方ない。文句をいうよりは読んだ自分をどうするかのほうが自分のためです。読み終わって、そこからあらためて、わかったこと/わからなかったことを整理しつつ、自分のなかで情報編集するなかでわかっていくというのが本を使った学び方だと思います。

本を軸にするのではなく自分を軸にする

それから一冊の本だけでわかった/わからないと考えるのも見直したほうがいいかなって思います。あくまで本を軸にして考えるんじゃなくて、軸は自分のほうに置くことが必要。これ、考えれば当たり前のことですよね。本をわかりやすかったとかわかりにくかったとか評価しても仕方がないことで、自分が何がわかって何がわからないかってことが本当は自分にとって大事なことのはずですから。

なので、自分のための編集作業をうまくやろうと思ったら、複数の本を同時に読むのがいいと思います。これ、大変そうに思えるかもしれませんが、実際にやってみると一冊の本から得られる情報より複数の本から情報を得るほうが素材がたくさんある分、自分の文脈にあった気付きが得られやすくなるのに気づくはずです。もちろん、そうなるまでに慣れは必要でしょうけど。
で、この場合、素材の多さがポイントですから、複数の本を選ぶときでも違う内容を扱っている本でないと効果がありません。同じことについて書かれた本だと複数読んでも所詮素材がかぶってますから。なるべく視野を広げるためにも、自分がこれまで読んだこともないような本を選ぶようにするといいと思います。そうすることで逆に自分の専門領域の視界も開けてくるはずです。

結局、読まされるんじゃなくて読むことなんだと思います。本にむずかしいと文句をいっても仕方がありません。問題は自分がどうなりたいのかなんですから。
大事なのは、軸は本にではなく、自分に置くことだと思います。
きっと、これは本に対してだけのことじゃないですね。自分に軸を置くことでいろんな物事をみる目が変わってくるのだと思います。

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