この本の著者であるベルンシュタインはロシアの生理学者。この本は1940年ごろ書かれたと推測されていますが、著者の死後20年経ってようやく遺稿が発見され、英語版が出版されたのは1996年だといいます。日本語版である本書は2003年の発行です。
本書の目標として、著者はまえがきに次の2つを挙げています。
- 巧みさという複雑な心理物理的能力を、できるかぎり厳密かつ詳細に定義し、分析すること
- 動作の協調や、運動スキルや練習などの性質について、現在までわかっている知見を一般読者に向けて簡潔に解説すること
巧みであるかは別にしても、人間がある特定の状況において行う動作というのは単位的な動作の複雑な協調であることは僕ら素人にもなんとなく想像できます。
昨日の「アフォーダンスとは」では、ペンを手に取る動作とペンケースを手に取る動作では、手(指)の形が無意識的に選ばれることを確認しましたが、当然、そこでは目と手(指)の協調が起こっているはずです。しかも、手(指)だけで机の上の物体を取れるかというとそうではなく、直接的には手(指)で物体を取るにしてもほとんど身体全体を使ってその動作を行っているのは想像できます。
そんな単純な日常の動作でも身体全体がうまく協調しないとその動作を成功させることはできません。机の上のペンを取り損なうことはほとんどありませんが、背伸びして手を伸ばしてもちょっと届かない棚の上のものを取る場合にそれをジャンプして取ろうとしたら成功の確率はちょっと減ります。ジャンプのタイミングとものをつかむ動作の協調にすこし巧みさが必要になる。ましてやイチローの背面キャッチなどは到底僕らには真似できるレベルの巧みさではありません。その場合、飛んでくるボールが僕らをどんなにアフォードしても、僕らの側にそれにアフォードされる力がないということになるのでしょう。
そういう巧みさがどういうメカニズムになっているのかを探求したのが本書です。
動作とその条件
著者はまず「巧みさが必要になるかどうかは動作の種類によって決まるのではなく、動作を取り囲む条件によって決まる」と述べています。同じカップを手にして歩くのにしても、空のカップを持っている場合と熱いコーヒーがなみなみと注がれている場合では必要な巧みさは違います。状況が異なると、動作の種類は同じでも心理的な面で動作を成立させるための課題がむずかしくなることがあるといいます。運動する状況によって、より複雑な運動課題を解かなければならなくなったり、ときにはまったく新しい課題を運動の機転によって解決することが必要になる。床の上を歩くのに巧みさは必要ないが、一方で綱渡りはとても難しく、このときには巧みさが必要になる。ニコライ・A・ベルンシュタイン『デクステリティ 巧みさとその発達』
綱渡りでなく、もうすこしかたく固定された木の細い橋でもそれがとんでもない高さにあれば、僕らの足はすくみます。床の上に木の橋と同じ幅で描かれた線の上を歩くのには何の支障がなくても、それが高所にある橋になると同じようにその上を歩くのがきわめてむずかしくなります。
巧みさが必要かどうかは、動作の種類によってではなく動作を行う状況によって決まる。これは確かにそうですよね。どんなに高い運動能力を使って行われた動作であっても、それが状況に不適応なものであれば、それを巧みだとは誰も思わないでしょう。むしろ、適切な動作を適切な状況において行うことで、その動作の目標であった結果を達成できることが巧みさの条件なのでしょう。
イチローの背面キャッチにしても、天才的なバッティングにしても、個々の動作そのものが他の選手と違うわけではありません。むしろ、イチローの巧みさは状況に対して適切な動作を行うことができるようにするその協調能力の高さにあるといってよいのではないかと思います。どんなに華麗にみえる動作、パワフルな動きでも、球が前に飛ばずにキャッチャーミットに収まっていたら何にもならないのですからね。
動作構築のレベル
著者はそうした巧みさをもたらす人間動作の構築のメカニズムを、進化のプロセスにおける身体および脳のしくみの変化と対応させながら、動作構築のレベルを以下の4つに分類しています。- レベルA:緊張のレベル
- レベルB:筋-関節リンクのレベル
- レベルC:空間のレベル
- レベルD:行為のレベル
レベルAは自分の姿勢を保つレベルです。赤ん坊の首がすわるようになるというレベルの動作構築です。かといって、なんだ、そのレベルかということではないでしょう。筋肉の収縮の強さを調整して身体全体やその一部を一定の状況に保つということは、それ自体、すでに複雑さをもった動作です。
次のレベルBではさらにそこに関節の動きをリンクさせ、身体の移動を可能する。そこでは様々な筋-関節リンク間のシナジーが必要になってきます。歩く、走る、ジャンプする。移動に伴う動作にはとうぜん視覚や聴覚などの感覚器官をつかって移動による場の変化の認識も常に必要となり、そうした感覚器官との協調も動作の条件となってくるレベルです。
レベルCの段階になると動作構築の複雑さはより一層増します。レベルCの動作には狙いを定めて対象を移動させるような運動が含まれます。ボールを投げる、重量挙げでバーベルを持ち上げるなど。他にも空間的な把握が必要になる動作。飛んできたボールをキャッチする、スキーのスラロームなど、レベルBでのスムーズな繰り返し動作が要求されるものではなく、状況に応じた一回きりの行動が求められる動作のレベルです。ここにはピアノを弾くなどの動作も含まれてきます。
そして、最後のレベルDを著者は行為のレベルと呼び、人間レベルの動作だとしています。それはここまで3つのレベルを使い分けながら連続した動作によるひとつの行為を可能にするレベルです。例としては、タバコを吸う、お茶を入れる、洗濯をするなどがあげられます。どれもひとつの動作ではなく複数の動作が連続してはじめてひとつの行為として成り立つものです。例えば、タバコを吸うにしても、タバコをケースから一本取りだす、それを口にくわえる、ライターを手に取り、火をつける、火をタバコに近づけ、息を吸いながらタバコに火をつける、といった一連の動作がすべてうまくいった場合にのみ、タバコを吸うという行為は成立します。このレベルの動作の連続によって行われる行為はほとんど人間にしかできないものだとされます。
運動と練習
生物の進化を考察して分類されたこの4つのレベルの動作構築は、個体形成である子供の運動形成時にもみられると著者はいいます。先の赤ん坊の首が座るもそうですし、立って、歩けるようになるというのが乳幼児期に誰もが通る道のりです。そうしたレベルAやBの動作構築能力が土台になって、レベルCやDの動作構築を行う準備が整います。そこからキャッチボールができるようになったり、ピアノが弾けるようになったり、字が書けるようになったり、パソコンでメールやインターネットができるようになるのは、もうすこし練習を重ねる必要があるでしょう。
著者は、運動スキルが、運動の公式でも、どこかしらの運動中枢に書きこまれた筋力の発揮に関する公式でもないということを強調します。運動スキルは状況に応じた何らかの運動課題を解決する能力であるとしています。
神経系はスキルに従属するのではなく、スキルを自らの内部に組み立てる。つまり、練習とは能動的な組み立てのプロセスである。ニコライ・A・ベルンシュタイン『デクステリティ 巧みさとその発達』
レベルDの連鎖的動作による行為を可能にするためには、その全体の組み立てには注意を払っても個々の動作レベルはある程度自動化されている必要がある。練習とはまさに個々の動作レベルを自動化し、状況に応じた行為を瞬時に組み立てることを可能にするものなのでしょう。
非常に単純で単調な動作に含まれる運動スキルであっても、「運動の公式」や「運動の決まり文句」であろうはずがない。これは、運動スキルと条件反射が同じものだと思っている人たちを含めて、大勢の人々に誤解されてきたことだ。したがって、運動スキルを、能の運動領野のどこかに存在する刻印や痕跡だと考えるのは誤りなのだ。ニコライ・A・ベルンシュタイン『デクステリティ 巧みさとその発達』
僕は、ここがいわゆるテンプレートと型の違いだと思います。公式や決まり文句を期待するテンプレートの発想と、練習によって組み立てプロセスそのものを取得する型の発想は似ているようで違います。テンプレートは条件反射的にいつでも考えずに同じ反応しか返すことができませんが、組み立てのプロセスの習得である型はそれを身につけることで状況に応じた巧みな反応を可能にします。
僕自身、「パターン認識と予測」や「フレームワーク思考からの脱出」といったエントリーで、このテンプレートと型をごっちゃに考えていた傾向がありますが、ここはあらためて分けて考えないといけないなと思いました。その意味もあって、この本についてあらためて書評を書いた次第です。
テンプレート利用はどうでもいいですけど、この型というのはまだまだ調べてみたい深いテーマだなと思います。学習や学び、それによる巧みさの習得というのは、僕にとっては興味深いテーマのひとつですね。
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