2009年01月07日

パターン認識と予測

分類と階層構造化、あるいは関係性の把握。もうちょっと広げると状況の把握。そうした把握が自分のなかでしっくりきた際に「わかった!」となる。これ、言うまでもなく当たり前のこと。
ようするに、そうした自分でしっくりくる状況、パターンを把握すること。その自分でしっくりくるパターンを見える形にする視座がいわゆるフレーム。

当たり前だけど、パターンがなければ人間は考えることはおろか、普通に行動することもできません。床と壁のパターンの違いが認識できるから部屋の中を歩けるのだし、ドアの向こうをなんとなくであれ、予測できるからこそ、そのドアを開けるかどうかの判断も可能です。
パターン認識があっての私たち。そのために視座であるフレームを固定化する必要があるのもYes。問題ありません。

フレームを用いること自体が悪いわけではない

パターン化やフレームを用いることが悪いなんてわけはありません。
悪いのは、用いるパターンを限定してしまうことです。

少なくとも、いわゆるフレームワーク思考などで用意されているフレームの数だけではまったく足りない。いや、足りる、足りないの話ではなく、フレームを限定してしまえば答えのパターンもある程度限定されてしまうということが問題です。
情報の分類、関係性の把握が「わかる」ということであるとすれば、分類パターン、関係性の把握のパターンを最初からある程度限定してしまっているフレームワーク思考が理解の効率化をはかる上でメリットがあるのと同時に、理解の方向性を限定してしまうデメリットがあるというのは考えればわかるはず。別にフレームワーク思考そのものが悪いわけじゃないのはそのとおりです。問題なのは、そのデメリットが理解されていないことだけです。

パターンを使う利点は上にも書いたように、行動する上での予測やそれに基づく判断を可能にすること。予測という機能が人間に備わっていなければ、人間は道具も使えなければ、あらゆる認識ができないでしょう。それはノーマンの行為の7段階理論を思い出しても容易に想像はつきます。



学ぶ=真似ぶ際にはフレーム利用が有効

フレームワーク思考がフレームにあてはめて物事を考えるためのものなんてことは当たり前で、それにさえ使えないのだとしたら、そもそも話題にすらなっていないでしょう。

とうぜん、普段からフレームを使って生きている人間に対して、比較的よく使うであろう便利なフレームを提供して簡易的な分析、情報整理ができるようにしているのだから、それ自体は悪くはないし、利口な使い方をすれば便利に決まっている。だって、それはデザインする際によく使うデザインパターンを利用して効率化やデザインの標準化を図るのと同じですからね。
あと経験がすくない学生だとか、若手の社会人だとかがまずは考え方を学ぶために既存のフレームを使うのもいいことだと思います。守破離ですから。学ぶ=真似ぶですから。ちなみに物真似を重視し型を学ぶことを重視する能楽では、ものまねを「物学」って書きます。

ものまねをきはめて、そのものまねに、まことになり入りぬれば、似せんと思ふ心なし。
世阿弥『風姿花伝』

真似も究めれば、真似ようなんてことを思わなくても自然にその型=フレームが身についてくるわけです。

フレームを用いる利点と問題点をわかって使い、使い方さえ間違えずに気を付けていれば、それが便利なのは言うまでもありません。

自分の経験からフレームを作る努力もしましょうね

ただ、思考のフレームを固定してしまえば、それを使って可能な予測結果もある程度限定されてしまいます。素材を変えれば答え自体は変わったように見えても、答えのパターンは同じになりますから。ようはそれがわかって既存のフレームを使ってますか?ということ。どんなツールでもそうですけど、単に使い方がわかってるだけじゃだめですよね。

思考を効率化するために既存のフレームワークを使うのはよいと思いますが、それと同時に自分自身の経験を通じてフレームを作成するということもちゃんと自分に課していく必要があるでしょうということです。

新皮質に形成されている現実世界のモデルや記憶は人によって違うため、類推や予測の結果が変わる。(中略)イヌを飼っている家庭で育てば、そのときの経験がイヌの行動の予測に使える。社会生活、語学や数学、駆け引きなどにおいて創造性に差が出るのは、育った環境の影響が大きい。人間の予測、すなわち才能は、経験の上に成り立っている。

しょせん、他人が作ったフレームでは真に「わかった」ことにはならないと思います。なんとなく情報の整理をしたり、情報の組み合わせからある発想が生まれたりということはあるでしょうけど、それが自分自身の抱えている問題解決に常にフィットするかといえば、そうではないでしょう。

「わかった!」は無数の可能性のひとつでしかない

それに一番大きいのは、最初から既存のフレームに頼ってしまうことで、発想の方向性が限定されてしまうことです。本当なら苦労した末に独自の発想が生まれるかもしれない可能性を、便利なフレームを使うことでなくしてしまうことです。

「わかった」となるのは情報をある構造、ある関係性において把握することです。ただ、その過程においては、本来さまざま構造化の形、関係のネットワークの結びつきが検討されていれば、もしかすると「わかった」がひとつではなく、複数になっている場合もあるはずなんですね。これも当たり前で、見方が変われば状況の理解の仕方も変わる可能性があるわけです。これがいったん「わかった!」となってしまうと、それ以上好奇心が失われ、探究の意欲もその実践も行われなくなる。わかるというのはその意味で両刃の剣。だから、わかることが重要ではなく、本当はわかりたいという好奇心のほうが大切

まぁ、そのへんがわかって使うなら、もちろん、フレームワーク思考は便利なものだと思いますよ。
問題はその与えられたパターンだけじゃ、必要な発想が出てこないことが人生にもビジネスにもたくさんあるってこと。そのためには各自が自分で必要な発想を出すためのフレームを作っていく必要がありますよね。
それに気づいていないのだとしたら、それこそが一番の問題。

   

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タグ:予測 発想
posted by HIROKI tanahashi at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 脳科学、認知科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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