東洋文化史/内藤湖南

原研哉さんとの対談集『なぜデザインなのか。』のなかで、イタリアで活躍しているデザイナーの阿部雅世さんは、デザインというものを日本語に翻訳する際に「生活文化をつくる仕事」というふうに訳してみたらどうかということをいっています。そうしたデザインの仕事をするためには、前提として「質のいい暮らしをするためには、自分自身が、文化に支えられた生活をすることが必要」「自分の生活を支える哲学を豊かにすることがたぶん必要」ともおっしゃっています。

今年1年を振り返ってみると

僕にとってこの1年というのは、まさにこの「生活文化をつくる仕事」ということを公私ともに考え実践してきた1年だったという気がします。

「公」というのは『ペルソナ作って、それからどうするの?』の出版や情報デザインフォーラム関連の一連の活動を含めてユーザー中心のデザインの仕事に関わってきたことを指します。「私」というのは日常の暮らしのなかでの仕事(家事やそれにつかう道具)を見直したり、いろんな場所に出かけて古い文化の名残に実際に触れてみたり、あるいは書籍を通じて文化(特に日本文化)について調べてみたことを指します。

自分の生活を支える哲学

デザインを「生活文化をつくる仕事」として捉えるという点では、今年やってきた活動はまだようやくスタート地点に立てたかな、くらいの印象を僕自身もっていますので、来年以降も引き続き自分にとっての課題だなと思っています。その観点からまずは「デザイン思考(デザインシンキング)」というものを僕なりに一度まとめてみようと思っています。これがまず来年早々の課題。

それが短期的な課題だとしたら、もうひとつにはやはり「生活文化」というものに関して「自分の生活を支える哲学を豊かにする」ということを考えていく必要がある。基盤もなく上っ面だけ固めても簡単にグラついてしまいますから、ここをどうにかしないといけない。「自分の生活を支える哲学」と書きましたが、これは「自分の」に限らないとも思っています。
おそらく来年以降、この社会情勢の変化で「生活文化」の見直しは避けられないでしょう。そこで本当の意味でデザインを仕事にしている人がいかに自身の役割である「生活文化をつくる仕事」に結果を出していけるかが問われるはずです。とうぜん、結果を出すために今後の「生活文化」はどうあるべきかのヴィジョンが見えていなくてはいけない。その意味で「自分の生活を支える哲学」だけではダメで(もちろん、そこが出発点でなくてはいけないとも思いますが)、日本の「生活を支える哲学」といった点も考慮に入れていかないと、それが文化として根付かせるのはむずかしいのではないかと、そんな大そうな課題ももったりしています(年末なので、ちょっと大きなことも言っておこうか、と)。

書斎-実験-野外のバランス

といっても、僕自身がやることはといえば今年の延長でしょう。別に変ったことをやるつもりはない。

最近読んだ川喜田二郎さんの『発想法―創造性開発のために』という本で、科学を「書斎科学」「実験科学」「野外科学」に分けてありましたが、僕の活動もその3分類をバランスよくやっていくことになると思っています。すなわち、書斎で先人たちの知恵にあたること、実務を通じた実験を繰り返すこと、野外で自分を含めた人びとの生活に触れることの3つです。

意外とこの3つをバランスよくできてる人って少ないので、こんな僕でもその点がちょっとした強みになっていると思うので、来年以降もこの方向で、ということです。

近代文化の平民精神

と、前口上が長くなりましたが、内藤湖南さんの『東洋文化史』の書評ですw
もちろん、「生活を支える哲学」を考えるための「書斎科学」の一環。

ちょっと前の「日本文化史研究/内藤湖南」(「冬休みの読書におすすめする16冊の本」で紹介した1冊です!)でも触れましたが、内藤湖南さんは中国文化史を中心に、東洋文化史を研究した方で、中国の近代は宗以降にはじまると述べたことで有名だそうです。
具体的には、これですね。

宋以降は政治でも、学問でも、芸術でも、工芸でも、あらゆるものに平民精神が入ってきておる。これが近代のいちばん大事な内容と思います。
内藤湖南「近代支那の文化生活」『東洋文化史』

文化や政治の平民化を近代化と捉える視点は、『日本文化史研究(下)』に所収(この『東洋文化史』にも入ってます)の「応仁の乱について」で、

とにかく応仁時代というものは、今日過ぎ去ったあとから見ると、そういうふうないろいろの重大な関係を日本全体の上に及ぼし、ことに平民実力の興起においてもっとも肝腎な時代で、平民のほうからはもっとも謳歌すべき時代であるといってもいいのであります。
内藤湖南「応仁の乱について」『東洋文化史』

と記して、文化の庶民化と同時に、中国から日本文化の独立が生じた時代と見る視点とつながっている。政治に限らず、経済、文化の点でも、平民化・民主化が成立した時代をその国の近代化と見ているんですね。

近代化の時期は国によって違う

それもあって、内藤さんは「近代支那の文化生活」のなかで、古代、中世、近代といっても簡単に年数で分けられるものではなく、古代から数えても2500年程度の歴史しかない日本と、4000年とか3000年とかいわれる歴史をもつ中国では、いつからが近代なのかという区分も違ってくると書いています。

一人の人間で申せば幼稚な時期と青年の時期と、それから老衰の時期があるごとく、国とか民族とかいうものにも、そういうものがあるといたしますると、古代というような幼稚な時期がどのくらい、何年から何年ぐらいの間に当たる、中世というのはどのくらいからどのくらいに当たるというような、おのおの相違があるわけであります。そうしてまたおのおのの時代、幼少の時期、それから壮盛な時期、それから老衰の時期というようなのは、そのおのおのの国に特別なこともあり、あるいは各民族に共通した点もありますが、要するにおのおの時期によって有する内容が違うと思います。
内藤湖南「近代支那の文化生活」『東洋文化史』

近代化の時期は国によって違う。これ、考えれば当たり前なんですけど、あらためて言われて新鮮でした。
そこで近代というものを単に世界共通に年数で分けるなんて馬鹿なことをせず、近代とは何かを定義した上で、各国の近代化の時期を同定しようというのが内藤さんのスタンスであり、そのスタンスからみて中国の近代化を「政治でも、学問でも、芸術でも、工芸でも、あらゆるものに平民精神が入って」きた宋以降としているのです。宋といえば、年数にすれば960年-1279年ですから、これがいわゆるヨーロッパを中心にみた場合の近代化の時期とは大きく異なっているのはいうまでもないですね。

平民精神と個人所有

で、なぜこんな話を取り上げたかというと、最初に書いた「生活文化」の見直しということを考える上では、まさにこの近代化=平民化そのものを再考する必要があると思っているからです。

ちょうど池田先生が書いたエントリー「所有という幻想」が人気になっていますが、まさに平民化の一部としての「個人所有」という概念の見直しが迫られているのが現在だと僕も思います。はじめに紹介した『なぜデザインなのか。』という本のなかでも阿部雅世さんが洗濯機などの共同所有なんて話をされていますが、これまで平民化という話と財産の個人所有の話がごっちゃになって進められてきたのが近代だとすると、どうやらそれってごっちゃにしなくてもいいんじゃないの?ということに人びとが気づきはじめているのが現代だという気がします。

ものは「個人所有」のものという前提に立てば、企業から消費者への販売/購入という不可逆的な図式が成立します。私企業から私個人への財産の移動ですね。でも、ものの「個人所有」が前提ではなくなり、たとえば、洗濯機でもいいですが、共同所有あるいはレンタルのような位置づけになれば、別に販売/購入という形での財産権の移動は必ずしも必要なくなります。所有権を前提とした販売という商売自体の見直しが必要になってくる。もちろん、どんどん売るために目新しさを重視したデザインを、という意味も変わる。
売ってしまったら、あとは買った人がどれだけ使おうがかまわない。いや、むしろ、できるだけ早く買い替えてほしいといった発想が、ものが共同の財産として、環境への配慮も考慮しながらも用いられるとなると、それはむしろできるだけ長く使ってもらえるような配慮が必要になってくるかもしれません。安かろう悪かろうなものをどんどん消費する形から、高くてもよいものをできるだけ長く使い続けるという価値観の変化が起こってもおかしくない。
まぁ、そういう方向に行くかはわかりませんが、とにかく何らかの発想の転換は求められるでしょう。生産の単位、消費の単位、所有の単位を全部ごっちゃにして、平民化したけど、それでよかったんだっけ?ってあたりで。共同所有を考えるにしても、それは「スケール感」で書いたのと同じような意味で単位が問題になりますし。いずれにしろ、かつてあった生活単位は近代が木っ端微塵にしてしまったのだから、これは科学の分野の還元主義の問題同様、バラバラにしたものをどう組み合わせるの?という問題は不可避ですね。

本来を知らない効果検証なんて

こういうことを考えるにあたって、単に民主化を目指した近代は失敗だなどと単純な答えを出したら、また失敗を繰り返すだけでしょう。仕事でもそうですけど、効果検証というのは最初に何を目指したかが明確でなければ検証する基準がない。まぁ、そういう無意味な検証が多いのですけど、それと同じで単に事後的ないまの視点だけで近代化を評価してもそれは意味はない。だって、さっき書いた共同所有のアイデアだって何も考えずにやったら単に共産主義の焼き直しになりかねないでしょ? 本当に意味のある評価をしたければ、実験が開始された当初に目指されたものをはっきりとつかんだ上で検証を行わなければ、将来の道は拓けてきません。
本来と将来」に書いたとおり、<将来のためには「本来」がよく吟味されなければならない>です。本来を知らない効果検証なんて、なんの将来の方向性も示してくれません。そんなのはただの愚痴といっしょです。

といったことを考える上で、この本も非常に面白い本でした。

人間の生活のなかで政治というものはかならずしももっとも重要なものでないのみならず、これは動物時代から続いてきておるので、たとえば人間に尾骶骨があるくらいのものと私は考えておる。
内藤湖南「近代支那の文化生活」『東洋文化史』

なんていうくだりも含めて。

ここで紹介されている江戸期の学者、富永仲基や山片蟠桃なんて話も面白くて、今後勉強してみたいなと思いました。やっぱり「書斎科学」「実験科学」「野外科学」のバランスは大事だと思いますよ。



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