富と文化

クリスマスイブの夜に、なんとなく引用。

国民とか民族とかいうものが世界に存在する目的は、単に富を作るにあるか、それとも世界の人類を向上せしむべき文化を作るにあるかということは、今さら問題にするほどのことではない。
内藤湖南『東洋文化史』

すこし前に『日本文化史研究』という刺激的な本を紹介した内藤湖南さんのことば。

富と文化と

大正15年に書かれた「民族の文化と文明について」という文章から引用。

その文化というものがいかにして発達するものかということを考えるのが、今後の国民なり民族なりにとってもっとも必要なことである。
内藤湖南『東洋文化史』

どうやら、その必要なことを考えずにここまで来てしまったんですね。そして、いまや、その必要さえもとうに忘れられたか。

もっとも富を作るということが文化を作るということにある程度まで必要な手段となるが、その程度を超過すると、時として富の中毒によって文化の停滞もしくは廃頽を来すようになるものである。文化の発達は富のごとく百年、二百年の努力でできるものではない。
内藤湖南『東洋文化史』

文化を使って富を得て、その富の中毒によって文化を廃頽させたか。しかし、その廃頽した文化は百年、二百年の努力ではできない。

個人や法人でも同様だと感じました。富を得るのに比べ、文化に類するものを個人や法人が築きあげるのには時間がかかります。どちらにより時間を割くべきかは利口なものならわかりそうなものなのだけれど。

目先を見るか、将来を見るか。将来を見るなら本来を見つめなくてはいけない。
世界の人類を向上せしむべき文化を作るか、それとも富を得るか。ここで文化を選んじゃう僕って時代錯誤なのかな。でも、文化ってその国にとっても、個人にとっても、企業にとっても、体力の源みたいなもんだと思うんですよね。それが尽きたら、もうカスみたいなものしか出てこないんじゃないかと思う。からっからのカスみたいな何をやっても、何を考えても、他人を動かす魅力はにじみ出ては来ないんじゃないかな、と。

あっ、特に何かあったわけでもなく、単にネタ切れなんです。



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