漢字百話/白川静

「形のないものは本当は語ではありえない」

このことばを目にしたとき、僕は自分がどうして白川静さんの本にこんなに惹かれるのか、わかったような気がしました。人間にとっての形と意味あるいは価値。そして、その形を操る人間の日々の行為。僕はそのことにすごく関心がある。それは僕がデザインなんてものにずっとこだわっている理由とも関係しているのだろうと思います。
このことはまたあとで書くとして、まず、この本の内容に触れておくことにします。

ことばを保持する形

カナやローマ字は文字だろうかと白川さんは言います。ことばを記すのが文字なら、それはことばを記すものではないと言っています。本やbookはことばだけれど、ホンやhonは単に音をあらわしただけで、具体的な"本"を想起させるに足る単語性をもっていないと指摘します。ホンやhonは単語としての特定の形態をもたない、本やbookのようには。

漢字の識別の容易さは、1000分の1秒でも漢字の映像を把握できるという実験結果によっても知られているそうです。また、漢字であれば1秒間に7字把握できるともいいます。「おそらく文字記号として、これほど瞬間把握力にすぐれたものは他にあるまい」と白川さんは評しています。

さらに、白川さんは漢字を中国からの借り物として捉えるのではなく、漢字を日本の国語として捉えていて、訓のない文字は国語領域化されていないものとして次のようにいいます。

訓によってのみ漢字は国語化され、意味が把握される。訓のない字は記号にすぎない。
白川静『漢字百話』

漢字という文字は日本語において訓を与えられてはじめて、ことばになる。日本人が本という字を見て"本"を想起できるようになってはじめて、それはことばの形となるのです。

「漢字は記号というよりも、むしろ意味であり象徴である」のです。

約600年間続いた甲骨文・金文の時代

本書『漢字百話』はそのタイトル通り、100の短い話により、漢字という文字の体系からその象徴の方法、そして、その文字成立の背景として古代宗教や霊の問題、そして漢字学の問題としてある字形学、字音と字義の問題などを紹介しつつ、9章、10章では漢字が日本において国字化されていった歴史的変遷や現在(執筆時点)の漢字の問題について紹介しています。

漢字の元となった甲骨文・金文は殷(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)の第22代の帝といわれる武丁期から殷末、周の時代を経て、春秋前期までの約600年間、本来の形象と表記意識を失わずに伝承されたそうです。漢字は今から3000年も前に生まれ、その字形は甲骨文・金文の時代からは大きく変わっても基本的にその表意性を失わず、いまでは唯一の表意文字として現在の生活にも用いられているのです。

甲骨文・金文はなぜ字形変化が多いのか?

白川さんの本を読んでいると、甲骨文・金文で書かれた文字が以下のように複数の字形で示されていることが多く、中にはこれが同じ文字なのか?と疑問に思うことも少なくありません。





これはどういうことなのかとずっと疑問をもっていたのですが、次のような白川さんの説明を読んで納得すると同時に、その意味する内容に驚きを感じました。

字形に変化の多いことは、文字としての未成熟や不安定を意味するのではなく、むしろその構造的意味が十分に理解されていることによる、自由な表出とみなされるものである。(中略)これは当時の表記者である史官たちが、文字形象の本来の意味を十分に理解し、正確に伝承していたからであって、単なる記号に終始していたのでないことを示している。
白川静『漢字百話』

ようするに、当時の文字は似顔絵などの絵に近かったということです。

例えば、「文」という字は、人型の形象の胸の部分に心をしめす図形を記した文字で、それは当時の文身(いれずみ)の儀礼を象徴したものだそうですが、その心の図形が×などになることもある。
また、「字」という文字は、先祖の廟屋に氏族員の子どもが謁見する様を示したもので、その生育の可否を祖霊に報告し承認を受ける儀礼を意味していて、そのときに幼名である字(あざ)がつけられることを示すものだそうですが、この屋根のなかに描かれる人型もさまざまです。

ただ、描かれる具体的な形は変わっても、それが人の胸に刺青をものであることや廟屋に子どもが謁見する様が理解できれば、それが「文」であり「字」であることは理解できる。それは現在の文字のように形が決まっているものよりも、似顔絵などの絵に近いといえるのではないかと思います。形態の同一性が厳しく求められる記号というよりも、文字を構成する形態素それぞれが本来のものを想起させればよいという意味で、「むしろ意味であり象徴である」と考えられます。

形と意味

また、そのような字形変化を許す甲骨文・金文は、別の意味では物そのものに近いといえるのではないでしょうか。すべての物に近いというより、人間がつくりだす意味をもった人工物に。

例えば、急須はその形がまったく同じではなくても、それが急須であると認識されるのに必要な形態素を満たしていれば、どれも急須です。それほど長い歴史をもたないノートPCでさえ、それがノートPCと認められる要素を満たせばノートPCであるし、仮にその機能面ではすべてノートPCたる要素を満たしていても、それがノートPCとして認識されるに足る形態をもたなくては、人がそれをノートPCだと認めるかどうかは怪しいのではないでしょうか。

このようなことに目を向けると、最初に紹介した「形のないものは本当は語ではありえない」という言葉がまた違って感じられるようになります。

本書でも問題とされているように、漢字はもはや当初の象徴性を失い、それ自体は記号化されたものとなっています。器や突、類といった字に見られる「大」という形は本来「犬」と書くものであり、それらの字がすべて古代の犬牲の儀礼と関係あったことに由来するのですが、そのような本来の象徴性を失った現代においては、点があることに有意性を見出せません。
ただ、本来の象徴性を失っても、本は"本"を象徴しますが、ホンやhonはそうではない。表意的な文字ではない英語のbookにしても同様です。ことばは形と結びついて意味を有する。それは人工物がその価値をアフォードするのと大きく違いはないのではないか。そして、もちろん、それは人間の形の認識、意味の認識の性向によるものに違いありません。

ものの形を決めるということ

1つ前の「冬休みの読書におすすめする16冊の本」では、おすすめの本の紹介をしつつ、歴史上いろんなものが発明されてきたことをそれとなく紹介しておきました。

僕はいまデザインに関わる仕事をしていますが、ここしばらくずっと考えているのは、いまのように個人としてのデザイナーがものの形を決めるというのはとても特殊なことではないかということです。ヘンリー・ペトロスキー柳宗悦さんのように、ものの形を個人の創意ではなく歴史的・社会的創意としてみるほうが正しいのではないかと思うのです。甲骨文・金文がそうであったようにです。そのなかで個人のデザイナーが行う創意というのは、甲骨文・金文における象徴性を損なわない範囲での字形表現の工夫なのではないかという気がしています。

では、そのとき、いま、ものをデザインする現場において、象徴性を損なわない範囲、あるいは別の言い方をすればアフォーダンスを損なわない範囲というのを、現在のデザイナーが古代の甲骨文・金文の表記者であった史官たちのように本来の意味を十分に理解し、正確に伝承できているか。これは当然ながら非常にあやしいでしょう。

とにかくデザインやってる人で、ものの歴史をちゃんと学ぼうとする人は少ない。例外といえるのは建築くらいなものです。なぜ、ある特定の道具の形は類似するのか、どうしてそうなったのかを考えもせず、模倣する。形の意味を解せずに、形の吟味を行っているということですから、あきれたものです。将来のためには本来がよく吟味される必要があるというのに。

いま、ものの形をデザインするといった場合、この部分をもうすこしちゃんと考えていかなくてはいけないのではと思っています。そのあたりを考えるうえで、白川さんの本は僕にとって非常に参考になる資料なのです。



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