冬休みの読書におすすめする16冊の本

今年もあとすこしですね。今年もいろんな楽しい本に出会えて幸せです。その中から何冊かをご紹介。冬休みの読書の本選びの参考にでもしていただければ。おそらくここで紹介する本は、他のブログのおすすめとはかぶらないでしょうし。

では、さっそく。
(文中の書籍名にあるリンクはそれぞれ本ブログでの書評へのリンクです)

古代社会の構想力

最初に紹介するのは、上田篤さんの『庭と日本人』、土橋寛さんの『日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで』、そして、白川静さんの『漢字―生い立ちとその背景』『初期万葉論』の4冊。この4冊に共通するのが、古代の祭祀社会におけるマナイズム、言霊や甲骨文、古代歌謡に託した呪的力の考察を通じて、現代の演繹的発想が力をもつ確実性の世界とは異質な、不確実性に彩られた世界に生きる人びとの構想力を探っている点でしょう。



『庭と日本人』では東洋における庭とは太陽祭祀などをはじめ神と遊ぶための儀礼の場であり、かつて日本の家屋には「ハレの出入口」と「ケの出入口」というように出入口を2つをもち、その一方の「ハレの出入口」は神が出入りする入り口として庭のほうに設けられていたことなど、庭と古代から日本人が抱いていた呪的な発想との関係を紹介してくれています。

『日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで』では、宗教が超自然的な存在としての神・仏の力に頼って、間接的に願望を遂げようとする行為であるのに対して、それ以前にあった呪術は人間が自然物や他者を直接的にコントロールすることによって、願望を遂げようとする行為であったことに注目し、『万葉集』にみられる花見・山見や草摘みの歌に古代の呪的儀礼のおもかげを見ます。

これは『初期万葉論』での古代歌謡の見方とも共通するもので、白川さんをこの『万葉集』にみられる呪的なものをおなじ古代歌謡である中国の『詩経』と比較しながら論じます。その古代の人びとの呪的な発想力を文字に見出しているのが『漢字―生い立ちとその背景』であり、文字の発生時に生まれた文字のほとんどが様々な祭祀における呪的な行為を示しているものであることを解き明かしています。

庭、歌、文字という、いまもその形を現在に伝えているものの形が古代人の呪的な構想力から生まれていることを知ったのは、この1年の一番の収穫でした。もちろん、古代人の構想力が生みだしたものには、ことばそのもの、神話や民話などの物語の構造もあります。これらはもはやその呪能が忘れ去られたものであっても、いまだに人間の思考や生活に欠かせないものであることが驚くべきところです。極端なことをいえば、古代にあって生み出されたこれらのものの形以上のものを、それ以降、人間が生み出せたかどうかは大いに疑問です。

   

中世の創造性

続いて紹介するのは、西岡常一さんの『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』、松岡正剛さんの『空海の夢』『山水思想―「負」の想像力』、内藤湖南さんの『日本文化史研究』の4冊です。この4冊が対象にするのは、先の古代からすれば時代が下った中世。内藤湖南さんの『日本文化史研究』に関しては、古代から近世までを扱っていますが、僕が注目するのはそのなかでも中世の歴史を扱った箇所なのでここで紹介しています。



『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』は、ほぼ同時期に読んだ『ふすま 文化のランドスケープ』と同じく本来ものづくりがもっていた自然や人に対する敬虔さに驚かされました。そして、自然に敬虔に学ぶことでものづくりのクオリティが今よりもずっと高かったということに。それがあったからこそ、柳宗悦さんが『工藝の道』などを通じて示された民藝運動に関しても理解することができました。呪的な発想は忘れてもものづくりにおいては自然に対する敬意を失っていなかったのが中世だったのだと思います。

とはいえ、呪的なものは宗教にとって代わられた。そのなかで書かれた文字やそれによって蓄積可能になった知といかに相対するかを真剣に考えたのが、仏教であったことが『空海の夢』を読むとわかります。物部氏などと同様に、古代の祭祀を司る氏族で、オーラル・コミュニケーションの時代において古言(ふること)を司る力をもっていた古代豪族・佐伯氏の出身であった空海。卓越した書の力をもち、多くの文献を読み耽った空海が、「坐る」という方法により、直立歩行で自由になった手を結びなおし、両眼をあえて半眼のソフトアイにして、繰り返し経を唱えることで自由な発話・思考から離れることで、進化を抑制しようとしていた仏教に身を投じ、自らそれをインテグレートしようとした試みは非常に興味深かったです。

一方、さらに時代は下って鎌倉・室町になると、中国の技術を学んだ日本の文化にも変化が訪れます。内藤湖南さんが『日本文化史研究』で、日本にはもともと文化のもとになるようなものがスープ状にあったのだけど、それをにがりのように豆腐として固めるには、中国文化という存在が必要だったとしつつ、日本文化の独立は応仁の乱以降に見たのは最近紹介したばかりです。そんな日本文化にとって重要な室町期の研究があまり進んでいないと述べるのは『山水思想―「負」の想像力』における松岡さんで、まさにこの本では山水画という中国の発祥の絵画あるいはその背後にある思想が室町期以降に日本化され、「負」の想像力、引き算の発想に変換されていく様を見事に描いていて、僕がいままで読んだ松岡さんの本のなかでも一番好きな一冊です。

   

世界と通じた江戸

さてさて、さらに時代が下って、日本では江戸時代。江戸といえば鎖国のイメージがあると思いますが、田中優子さんの『江戸の想像力 18世紀のメディアと表象』、タイモン・スクリーチの『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』、高山宏さんの『表象の芸術工学』、そして、バーバラ・M・スタフォードの『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』の4冊を読むと、いかに日本における江戸期が世界とつながっていたかということに驚かされます。



『江戸の想像力 18世紀のメディアと表象』が平賀源内や上田秋成が活躍し、『解体新書』が書かれ/描かれ、東錦絵と呼ばれる多色摺りのカラー版画が生まれ、鈴木春信の贋作浮世絵師だった鈴木春重が西洋のエッチング技法を学び最初の銅版画師・司馬江漢となった田沼意次治世下による重商主義の時代を描けば、『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』はそのすぐあとの松平定信が老中筆頭となり質素倹約を旨とした寛政の改革が行われた時代を描いています。そのいずれもが交通の発展、近代化の波によっておしよせる世界の脅威に対する反応として、文化にも色濃くその影響を浮かび上がらせた様を詳しく紹介してくれている様がおもしろい。平賀源内と田沼意次が海外との貿易で日本の銀が流出するのを止めようと海外貿易に値する国産品の開発を推し進めようと重商主義をしいたのに対し、そのあとの時代は海外との交通により次第に曖昧になりはじめた日本(=天下)というもののイメージを再び確固たるものとしようとして行われた視覚的復古主義の試みがいまなお日本のイメージとして流通しうる日本ブランドの創生に成功した点などは非常に興味深い。

そんな国家の境界をまたいだ交通がさかんになり、次第にビジネスが世界をまたいで軍事力とともに海を渡るのは、とうぜん日本だけの話ではない世界的な規模での話であり、と同時に各国が自らのイメージを再生産しなくてはいけなくなり、それと同時に言語やイメージの再整理、百科事典化が必要になったのも、この近代初期に世界同時的に起こったことだと見ているのが、高山宏さんの『表象の芸術工学』。英国王立協会などによる普遍言語の研究、アルファベット順の記述が採用されたエンサイクロペディアの出版、そして、松岡さんが『知の編集工学』で「ジャーナリズム」「株式会社、保険システム、保険会社」「政党」「広告」「クラブ、秘密結社」などの発明の温床となったとしたコーヒーハウスの登場など、江戸が独自に新たな仕組みの創出に励んでいると同時に、世界でも同様に言葉とイメージによる壮大な新システムの編集的創出が行われていたことを、高山さんはもう一冊の別の著書『近代文化史入門 超英文学講義』といっしょに紹介してくれています。

そんな言葉とイメージによる百科事典的な博物学の時代の思考法に着目したのが『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』で、現代のテキスト中心の分析的で演繹的な思考・発想の限界を超えるものとして、イメージのもつ力を再認識させる新・人文学の境地を切り開いて、これもかなり興味深かった。バーバラ・M・スタフォードに関しては『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』も続けて読みましたが、これもまた非常に刺激的な一冊で、そこに言及してはいませんが、江戸の表象的思考に通じる発想法が感じられました。

   

近代はどう歩んだか、現代はどこへ向かうか

最後に近現代に関する4冊を。デリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』、柏木博『20世紀はどのようにデザインされたか』、佐治晴夫さんと松岡正剛さんの対談集『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』、川村二郎さんの『いまなぜ白洲正子なのか』です。いずれの本も、ここで紹介した古代から中世、近世を経て、近代がいかなる冒険を行ったか、そして、それ以前と切断を行い、それによっていかに現代の問題が生じているかを考え上で参考になります。



『ポストメディア論―結合知に向けて』は、白川静さんの著作とは別の観点から言葉というものを考えるのに参考になる一冊です。文字とお金の誕生が期を一にしているという話も興味深い。あるいはバーバラ・M・スタフォードのイメージ学や『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』で紹介したようなイコノロジーなんかとあわせて考えてみてもおもしろい一冊でした。また、「アルファベットの思考態度の主たる特徴は、「遠近法」の発明である」といった主張は、遠近法とはまったく別の風景画を生み出した東洋の思想と比較する意味で、先にも紹介した松岡さんの『山水思想―「負」の想像力』などと読み比べてもおもしろい一冊です。

また、20世紀を振り返る意味では、近代デザインの歴史を考察した『20世紀はどのようにデザインされたか』や、佐治晴夫さんと松岡正剛さんによる対話が奇跡的なオーケストレーションを生み出している『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』も文句なしでおすすめです。<私たちは「物を見る」ということについては、カメラから胃カメラまで技術は発達しましたが、どうもそれをもう一度、「経験資源」として自分の内側にフィードバックするという能力が衰えてしまっているんです>なんていう松岡さんのことばは、ケルコフやスタフォードの本や白川静さんらが描いた古代社会の話とつなげて読むとちょっとおそろしい気もします。おなじく佐治晴夫さんが養老孟司さんと対談している『「わかる」ことは「かわる」こと』もおすすめしておきます。

そして、最後にあげる一冊は『いまなぜ白洲正子なのか』。本当は白洲正子さん自身の著作『かくれ里』『お能・老木の花』をピックアップしてもよかったのですが、著者の川村二郎さんに対して「あんたねえ、好きなことを何でもいいから1つ、井戸を掘るつもりで、とことんやるといいよ。途中で諦めちゃあ、ダメよ、わかる?」と勧めた白洲正子さんの生涯を知ってもらいたいなと思ったので、この本を紹介することにしました。

   

といった感じで、今年読んでおもしろかった16冊をご紹介。
これらの本を通じて、現在もなお人間にとって重要なツールである、ことば、文字、歌、物語、庭、お金、宗教、風景、ジャーナリズム、株式会社、百科事典、日本というイメージなどがどの歴史的時点で生まれてきたのかということを感じ、その意味を知ってもらえればな、と思います。それを知ることで、今とは違った視野の広さを手に入れらることができ、自由な発想ができるようになると思うので。

来年もまたおもしろい本に出会えるといいなと思います。

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